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IPEX講演会

中国と日本の真の理解のためにタイミングをみて開催しています。

第1回 日中セミナー
「中国政治の流れをどう読むか」講演要旨
早稲田大学政経学部 唐 亮教授
2013年1月16日(水) 星陵会館

1.はじめに    いま中国で何が起きているか、どの方向に向かっているか、その中で日中関係をどう見 るかについて、去年出版した岩波新書「現代中国の政治」の内容を抜粋してお話したい。  中国は改革開放政策以降、欧米、日本を手本として、経済の近代化、社会の発展、政治 的な民主化など近代化をどのように進めるかが大きな課題であった。その結果、急速な経 済発展を達成してきたが、大きな視点から見て中国の近代化は現在どのような段階に来て いるか、どのような特徴またどのような挑戦を受けているか、メインの課題は何であるか を把握する必要がある。昨年来いろいろな事件が次から次へと発生した。権力闘争、薄熙 来事件、日中関係、そして党大会・・・最近では、南方週末事件、昆明空港、江西省電子 部品メーカーのストライキ等々・・・いろいろな情報が伝わっている。実際起きた問題の 詳細と経緯は把握しなければならないが、それと同時に大きな流れ、全体像をつかんだ上 で個々の事実、事件を把握する必要があると思う。 中国が近代化に向かう中で、このような事件、問題をどのように解釈するか、そして中国 が何処に向かっているか、そのような視点を失敗を恐れずに提示してみたい。

2.中国の発展段階 ― 第1段階は経済発展最優先  中国の一党独裁は、人権弾圧、言論・報道の自由の抑圧というイメージが西側社会では 定着しているが、ただ、物事は視点を変えれば見方が微妙に変わる。中国が近代化を進め て行く上で、どのような道具、仕組みで取り組んでいるか、この道具が近代化という目標 を達成する上で有効かどうかが評価の一つの基準になると思う。かつての欧米はどのよう な道具を使っていたか。中国の毛沢東時代はどうだったか。中国モデル、欧米モデル、社 会主義モデルを比較してみたい。  毛沢東時代はソ連を手本とした社会主義モデルであり、社会主義の政治体制、そして計 画経済、国有企業を柱とする社会主義経済体制であった。毛沢東は一人の人間に権力を集 中し、徹底的な思想統制を行った。そこにおいて社会主義は体制の原理、政策の原理だけ でなく、国民の思想までコントロールしようとした。毛沢東時代は、全体主義的な体制で 、権力をより集中し、思想までコントロールし、資源も国家が完全に掌握していた。  それに対して、鄧小平時代は一党支配体制とは言いながら、政治学者リンスの言う権威 主義体制であった。権威主義体制は思想がなく、メンタリティ(精神状態)しかない。権 力者はどうやって権力を維持し、国民を納得させるか。国民に向かっては、今は統制が厳 しいが、将来は自由化するからと言い、保守派に対しては社会主義の看板を掲げ、その一 方、経済的には市場メカニズムを導入する。  権威主義体制は中国の発展モデルの根幹を成しており、次の二点が重要である。一つ目 は重層的な集権体制である。共産党と国家においては、共産党に権力が集中されており、 また中央と地方においては、中央に権力が集中されている。政治的な求心力、指揮命令系 統が重層的な権力構造によって確立されている。西側諸国にはいろいろ批判されるけれど 、 中国共産党は「権力集中は我国の政治的優位性」と言っている。二つ目はいろいろな方法 で成されている社会統制である。代表的なのは、メディア統制と結社自由の制限である。 社会的不安は昔からあり、貧困時代はどうやって衣食住足りるようにするかであった。今 経済発展している時代において、むしろ不満は更に増大している。権力にとって社会安定 をどのように実現するかは大きな課題である。中国共産党の社会統制のやり方は、メディ アを握って、結社の自由を制限すれば、あとはやりやすい。社会不満はメディアの統制と 結社の自由制限により分断されてしまう。不満がつながって大きな抵抗運動になれば脅威 となるが、分断されれば抑え込まれる。中国共産党は軍隊と警察を持っているから、それ でプレッシャーをかけて、時には若干の譲歩をして不満を抑える。  開発独裁政治の論理は、中国の目標は近代化であり、近代化は他の全てに優先する課題 であると言っている。安定は発展の大前提であり、秩序の安定、社会の安定がなければ、 発展はできないとの論理である。中国共産党が遠まわしで言っているのは、貧しい国では 自由と権利を制限しないと、なかなか秩序と安定を守れない。  毛沢東時代は計画経済、国有化を進め、悪平等であった。働いても働かなくてもあまり 差がつかず、インセティブがなかった。鄧小平時代になってから「先富論」が唱えられた 。 努力する人間、能力ある人間が先に豊かになって、それから貧しい人を助ける。鄧時代、 江時代は豊かになってから貧しい人を助けるという「共同富裕論」はさておき、「先富論 」が前面に出ていた。市場メカニズムの導入によって、能力ある人が先に豊かになって、 2 / 5 ページ2 人々のやる気を引き出した。それが経済発展につながったのは事実であるが、反面、何で も金、金の「拝金主義」は日本でも中国でも批判されている。  中国の市場経済は日本とも欧米とも異なり、国家が経済活動に対して深く関わるという 仕組みになっている。マクロでは、人民元の管理制度、土地制度、金融制度や労働政策。 ミクロでは、国家がいろいろな行政手段を使って企業の経営活動に介入する。いわゆる国 家資本主義である。  途上国の言い分としては、そもそも出発点が違う。欧米は企業が近代化を主導し、国家 は秩序を守ることで経済の近代化をサポートしてきた。一方、途上国の企業だと、欧米や 日本の多国籍企業に対等に競争はできない。国家の主導により、資源の配分を有効に使う ことにより追い上げて行くしかない。  またキャッチアップするためには、スピードに対する要求も高い。欧米は産業革命以降 300年かけて近代化を進めてきた。日本は近代化の超優等生で、明治維新から100年 で欧米に追いついた。韓国と台湾はもっと速くて50~60年で達成した。どうやって近 代化をスピードアップするかが課題であり、途上国にとっては、ある程度の国家の介入が ないとスピードが上がらないというのも事実である。「北京コンセンサス」が「ワシント ンコンセンサス」に取って替わるのではないかと言われる所以である。  このように中国の近代化の両輪は、政治の権威主義体制と経済の混合型経済体制と言う ことができる。但し、中国が成功するかどうかは転換期で、まだはっきりとは言い切れな い。  中国の近代化の第1段階では、とにかく何でもかんでもパイを大きくすることが政策の 出発点であった。鄧―江時代において、発展の戦略はとにかく効率最優先、経済最優先で あり、「先富論」が流行りに流行った。「拝金主義」は中国共産党自身が提唱したもので あり、「向銭看」=「向前看」で、農民の企業家を大いに推奨し、豊かになることは名誉 なことと持て囃された。18、19世紀の欧米の資本主義が鄧―江時代に持ち込まれたよ うな感じであった。権力者にとって経済発展は自己正当化につながるもので、多少不満が あっても、「以前に較べて我々は豊かになったじゃないか」で納得させられた。国民側の 少数のエリートを除いて、特に飢えている農民にとって、政治的な民主主義的な自由より は、どうやってパンを手に入れるか、肉を食べられるかがより大切なことであった。その ようにして、経済発展は今日まで続いた。

3.近代化第2段階の課題 ― 経済成長と社会発展の両立  中国は以上述べてきた発展モデルを導入して、経済発展において成功を収めてきた。し かしながら、成功を収めた反面、新しい問題が発生した。  経済発展に伴って、大気汚染、水質汚濁などの環境問題が深刻になってきた。  豊かになった反面、三大格差(農村と都市、沿海部と内陸部、階層間の格差)に象徴さ れるように格差が拡大した。中産階級においても、ここ5~10年は不動産バブルにより 住居が買えず、経済発展の果実を享受したとは言えない。個人の能力と努力以外に、分配 の不平等、制度的な不平等、機会的な不平等が拡大している。「時計男とマンションおじ さん」の例のように、中国共産党や役人の腐敗、不正、特権が目に余るようになってきて いる。社会的弱者にとって、社会保障が脆弱であり、不満、不公平感が増大している。不 満を解消しなければ、いくら警察力で抑えつけても、完全に封じ込めることはできない。 社会政策を強化して、弱者を助け、公正、公平、平等な社会を構築することは、権力を維 持することと決して矛盾しない。胡―温体制を評価するなら、経済成長を進めながら弱者 の救済、ミニマム公共サービス、社会政策の拡充に力を入れた10年間ではなかったかと 思う。  日本は1960年代に国民皆健康保険制度、年金制度を確立したが、中国はこの 5~10年、特にここ2、3年ようやく3つのカテゴリー(都市の勤労者、都市住民、農 民)において、国民皆保険・皆年金制度を整備し、9割以上カバーすることができるよう になった。これからの大きな問題は、給付水準をどう引き上げるかである。先進国では 、95%の都市住民が5%の農民を支えるという構図になっているが、今の中国では付加 価値の低い農民がまだ35%ぐらいであり、同じくまだ付加価値の低い都市労働者では、 とても農民を支え切れない。  このように近代化の第2段階の課題を解決するには相当長い期間を必要とし、胡―温体 制においてかなり力を入れたものの、習―李体制においても同じ課題を抱えている。すな わち、経済発展を図りながら、社会政策を強化していくのが基本方針と成らざるを得ない 。  更に中産階級の拡大と共に権利意識が向上し、その上ネット社会の到来により、情報発 信力及び動員のネットワークが急速に拡大しているため、中国は新たな不安定期に突入し たとも言える。

4.中国の今後 ― 民主化の行方と社会統制能力の維持  近代化の第2段階をうまく達成できれば、次は民主化が課題となる。教育水準が高く、 社会的地位も高い中産階級は、民主主義が望ましいと考えているものの、ソ連の崩壊や中 国天安門事件の混乱を経験してから、民主化はまだ時期尚早、すぐには踏み切れないとい 3 / 5 ページ3 う考えが大勢を占めている。  前述の第1段階、第2段階をうまく達成することができるかどうかが、第3段階として の民主化がうまく行くかどうかの前提条件となる。民主化自体は、経済発展の段階や社会 発展の段階と関係なく、行われることがある。一昨年のチュニジアやエジプトのように、 危機的状況が起きて、それに支配者がうまく対応できなければ、民主主義の看板を掲げる 勢力が政権を取ることはあり得る。しかし複数政党が誕生しても、民主主義がうまく定着 できるかどうかは甚だ疑問である。アジアでは、台湾や韓国は民主化がうまく行った方で ある。中国にとって大きな教訓となったのは、ソ連の崩壊であった。国家が分裂し、政局 が混乱し、マフィアが横行し、社会主義が崩壊した。そのうえ民族問題が発生し、今日で もまだ完全に解決したとは言えない。経済規模が1992年の水準に回復したのが 、2003、4年になってからである。  民主化のコストが高くつくか、低く済むか、ソフトランディングか、ハードランディン グかは、偏に民主主義の成熟度による。民主化自体はさほど条件はいらないが、ソフトラ ンディングするかどうかは、民主主義の成熟度という非常に厳しい条件が必要である。  ①経済の発展水準 ②教育の水準 ③法や諸制度の整備状況 ④中産階級の比重、市民 社会の成熟度 以上挙げた4条件が民主化の前にどこまで成熟化しているかが、民主化の コストと将来民主化がうまく定着するかどうかの決め手となる。  さて、今後の中国は更に経済成長、社会発展を続けることができるだろうか?  理論的には可能性があるとみている。ひとつには巨大な内需市場を控えていることが大 きい。沿海地域でも日本と較べれば、公共投資が全く不足している。内陸地域に至っては まだ開発の緒に就いたばかりである。  また、民間企業の力がまだ弱いが、この30年間、人材、資金、経営ノウハウ、理念等 企業経営力が徐々に上がってきているので、民間の力を発揮できれば、中国経済は今まで の9%でなくとも、6~7%は成長を続けられるのではないか。  ポイントは政治、中国共産党の社会統制能力にあるのではないか。今までの発展の大前 提が社会安定化能力、政策実行能力にあった。政策の多少の失敗があっても、試行錯誤で 修正が可能であり、修正できればまたすぐ再出発できた。もし、体制が崩れていたら、ソ 連の例のように、もう一度体制を立て直して近代化の軌道に戻すには相当時間がかかって しまう。  インターネットの発展により、結社自由の制限、メディア統制が挑戦を受けているだけ でなく、グローバル時代、自由化の時代においては、世界が注目している中で、中国共産 党が力だけで抑え込めばよいという訳には行かなくなっている。  近代化の第2段階において、社会統制能力が持ちこたえられるかどうかによって、中国 のこれからのシナリオが変わってくる。私見では、何んとか持ちこたえられるように思う 。 ただ悪い方のシナリオとしては、不満がまだ収まっていないところで成長が止まれば、不 満がさらに倍増する。  社会統制能力があるうちは、いろいろな問題発生はむしろ改革の契機になり得る 。2003年のSARSに対する対応はまだ記憶に新しいところである。情報公開を進め 、危機対応体制を確立し、また人々は政府は批判できるのだということを認識する。勿論 、一回二回の事件で中国がいい国になるとは思わないが、そのような事件が反省のきっか けになり、感覚を積み重ねれば民主化の第2段階の課題の解決につながると思う。統制能 力があるという前提であれば、いろいろな問題は更なる改革、前進のきっかけになるが、 うまく対応できなければ民主化が盛り上がる状況となるであろう。

〈質疑応答〉 Q:1.2030年に中国のGDPが米国を抜くかどうか。   2.中国の中間層が拡大した時に、一党独裁制を続けられるかどうか。   3.それに失敗した時に、国民の目を外に向かせる可能性が高くなると思うが・・・

A:1.成長率が9%から6~7%になっても、中国のGDPは2030年には米国を上 回るようになると思う。ただ、中国は米国人口の5倍あり、一人当たりGDP、 すなわち質的にはかなり劣っている。   

A : 2.確率的になかなか言えることではないが、一党独裁制が崩れる可能性は高いと思 う。改革開放以来30年、インターネット時代、グローバル時代を迎えて、南方 週末事件をみても、底辺では民主主義的自由を求める声が強くなっており、それ が流れで、当局がそれを力で抑えることが難しくなってきている。中国はまだ荒 っぽい社会であり、権力側は制度、改革、ガバナンスの能力と理念が不足してい るし、民衆側も充分成熟していないため、すぐ暴力に訴えるなど主張するときは 非常に激しい。従って中産階級は民主化にまだなかなか踏み切れないでいる。今 後社会が落ち着いてきて、話し合いによって徐々に自由を拡大して行けば、必ず という保証はないが、10年、20年経てばかなり変化が出てくるのではないか 4 / 5 ページ4 。   

A : 3.中国と日本を較べて、政府と民間で分ければ、中国は民間でナショナリズムが激 しくなる傾向がある。弱者が沢山いる社会で、不満のはけ口をナショナリズムに 求めやすい。政府は近代化を進めなければならない目標があり、政治と外交の直 接の当事者であり、極端な外交をやってもうまく行かないことが多いので、ナシ ョナリズムは禁じ手であり、使いにくい。ただし体制が崩壊した時はこの限りで はない。日本の政府は選挙があるため、大衆的な人気を考えなければならず、民 衆のナショナリズムに流されやすい。

Q:中国の方が「中華思想」を超える思想があるだろうかと言っていたが、それについて   のお考えは?

A:アヘン戦争までは、中国は「中華思想」を持ってアジアの秩序を保っていた。近代に 入って文明国から凋落し、二流、三流国になって、意識の構造は状況によって変わっ てきた。もし、弱国になって強国にいじめられても「中華思想」を持ち続けていたら 、 それこそ世界の非常識と言われたでしょう。毛沢東が新中国を強い国に作ろうとして うまく行かなかった。私自身、「中華思想」という言葉は日本に来るまで知らなかっ たし、華夷秩序は中国では教えられていなかった。我々の世代では、むしろ中国の後進性―日本、欧米に対して遅れたという意識が強く、どうやって追い付くかが課題であった。1990年後半のアジア危機を乗り越え、2001年9.11の反テロ、リーマン危機、北京オリンピック、上海万博を経て、徐々に大国としてどう振る舞えばよ いか、世界秩序の中でどういう役割を果たして行くかを意識するようになった。ただ 、 仮に中国が強い国になっても、昔の状態に戻ることはないだろう。その点、日本での 受け止め方と中国の実態にはかなりのギャップがあると思う。

Q:中国の国家財政、税制はどうなっているか?

A:国債を発行しているが、国家財政は健全な範囲にあると思う。所得税が国家の税収の   中に占める割合は低く、税金を払わない低所得者も数は多い。地方政府は土地の使用   権を売って財源としているが、そのため土地やマンション価格が高騰し、そのことで   都市住民は政権に対して不満を持っている。

Q:2020年までの成長を考えれば、エネルギーが成長を制約する要因になると思うが , いかがお考えか?

A:確かにエネルギーは大きな制約要因であり、中国政府はあらゆる手段でエネルギーを確保したいと考えている。先週国家の「エネルギー政策」を発表したばかりで、エネルギー問題は間違いなく成長の制約要因である。地球温暖化の問題もあり、中国では   エネルギーの使用効率を上げることに重点を置こうとしている。2020年をピークに、CO2削減を考えており、そのためには技術進歩が必要である。

Q:軍に対する統制、ガバナンスはどうなっているか?

A:「軍が党に従う」ことで、シビリアンコントロールを行っている。軍の中に党組織があり、人事権、意思決定権を握っている。軍の中の政治部は、思想、人事を担当しており、軍の司令官は政治委員の指示・命令に従わなければならない。そのようなことで 、 西側諸国と微妙に異なるが、党が組織と人事で軍をコントロールすることで、シビリアンコントロールを行っている。中央においては軍事委員会があり、連隊まで党の支 部があり、党が軍の指揮権を独占してきた。他の途上国と較べて中国の軍は比較的おとなしく、クーデターもなかった。ただ、中央が分裂した時に軍がどちらの方に付くか、分からなくなる。政治が安定していれば軍は表に出て来ないが、権力内部が不安定になれば不確定要素になり得る。

Q:中国の大きな流れは分かったが、現在喫緊に起きている問題についてはどうか? また、中国の軍がドンパチを仕掛けてくることはあり得るか?

A:小さな島のことで、日中関係に大きな影響が出ているが、どのように落とし所を探るか、関係の正常化を戻すか、ただ双方そのような意図があっても、ナショナリズムの意識があり、なかなか譲れないのが今の実態である。私の考えでは、相手のいい所を見て、エールの交換をすべきだと思う。  中国の軍が攻撃してくることは全くあり得ない。今まで進めてきた近代化、国際関係 5 / 5 ページ5 をぶち壊すからである。ただ、偶発事故はあり得るが、武力で解決はあり得ない。中国の目的は棚上げにすることだが、日本政府は認めたくない。個人的には、もっと建設的な意見を出し合って、お互いに分け合うのが一番良いと思っている。            

以 上
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第2回日中関係セミナー
「私のChina Watching 50年」講演要旨
多摩大学名誉学長 グレゴリー・クラーク氏
2014年3月12日(水)18:30~20:30
TKPスター貸会議室四谷

*私は1956年にオックスフォード大学を卒業後、オーストラリア外務省に入った。同時期に加藤紘一氏が日本の外務省に入り、私と同じ道をたどった。彼は台湾に派遣され、中国語を学んでいる。私は外務省に入省後、香港に行き中国語を学んだ。自分で選んだわけではないが、当時オーストラリア人はアジア、特に中国に関心がなく、省内で中国語を学ぶ募集があったが、200人中ただ一人私だけが応募した。すぐ香港に派遣され、その時に台湾にもよく行った。ちょうど中国は大躍進の時期だった。中国の中を自分の目で見て回わり、ひどい餓死などは後でわかったが、農村で鉄を作る炉は小さくて全く意味のない代物で、それで鍋を溶かして使い道のない銑鉄を作っていた。完全に狂っている感じだった。香港にいた時は中国人を尊敬していた。頭が良く、よく働き、香港フラワー等を一生懸命作っていた。大躍進の原因は毛沢東だった。私は62年にオーストラリア外務省に戻った。

*1962年インドと中国の国境紛争のとき、私は中国デスクにいたので、多くの情報と資料を持っていた。紛争の発端は明らかにインドの挑発によるものだった。国境に係わる対立が生じた当初、中国は妥協案を示したが、インドは妥協案を呑まず係争地の全てを欲しがり、マクマホンラインを越え中国チベット領域に進軍した。このことはアメリカ、イギリスが秘かに認めているにもかかわらず、それに中国が反撃したことに対して、西側諸国は中国の侵略と決めつけた。西欧諸国は平気で嘘をつくことをその時初めて知った。あとで西側は、西側が強い態度をとったので中国が撤退したと胸を張っていたが、あの時は明らかにインドが悪かった。当時オーストラリア外務省は日本と同じような稟議制を取っていて、私は中国の批判をやめるべきで、明らかにインドの方が悪かったと書いて上に回したが、上司は中国とインドが戦争することはオーストラリアの利益になると答えた。オーストラリアと中国は国交関係がなく、大使館も置いていなかった。私が中国に行くことも拒否された。

*その後、フルシチョフの自由化の時代に2年間モスクワに駐在した。フルシチョフは冷戦を止めたかった。63年に中ソ論争が起こったが、同じ共産主義を標榜する国同士でなぜ起きたのか不思議でならなかった。同じ時期にベトナム戦争がエスカレートした。64年10月にフルシチョフが失脚して、ソ連は新しい体制(ブレジネフ第一書記、コスイギン首相)になったが、11月にオーストラリア外務省から、新しいソ連のリーダーに会いたいとの連絡があった。私は当時一等書記官だったが、オーストラリアのハズラック外務大臣と一緒にクレムリンに行き、コスイギン首相、グロムイコ外務大臣に面会した。ハズラックは「ミスターコスイギン、あなたの悩みは解っている。中国は侵略的で、あなた方の新疆を奪おうとしている。(新疆は中国領なのに、彼は全く無知であった。)ベトナムでも中国は侵略的で、北ベトナムは中国の傀儡で、南進政策を取っていてオーストラリアの方向に侵攻してきている。だから、我々西欧諸国、オーストラリアはソ連と組んで中国の侵略を防止すべきだ。」と主張した。それに対し、グロムイコは「ソ連は勇気ある北ベトナムを高く評価し、できる限り援助したい。中国にはもっと北ベトナムを援助してほしい。」と返答した。オーストラリアに帰国してからの記者会見で、なぜソ連に行ったのですかとの質問に対して、新しいリーダーに挨拶に行ったとだけハズラックは答えた。これが西欧諸国の外交の汚いやり方であり、また知識がなかった。
あとで解ったことだが、ハズラックは自分の考えではなく、アメリカに頼まれてやったことだった。アメリカは中ソ論争の意味が解らなかった。ソ連は穏健派で、中国・毛沢東は過激派という感覚。だからベトナム問題でソ連と協力できるのではないかと考えた。この分析は明らかに間違いだった。

*私は「In Fear of China」という本を書くために中ソ論争を説明しなければならなかったので、徹底的に調べた。1957年ソ連は中国に核兵器開発を援助すると約束した。中国は共産圏にリーダーが必要と考え、それをソ連に求めた。中ソ論争の原因は、アメリカの学者によると、中国は共産圏のリーダーになりたかったからだそうだが、実際は毛沢東の発表があった。―共産圏にはリーダーが必要で、それはソ連だ。58年台湾海峡危機が発生し、アメリカは台湾が負ける可能性ありと、核兵器使用を匂わせた。フルシチョフはアメリカと冷戦を止め、仲良くしたかったので、59年10月中国との核兵器開発援助の約束を撤回したため、それに対して中国は激しく反発した。これが中ソ対立の真の原因で、西欧諸国の言う中国が侵略的というのは誤解だった。

*中国は大躍進の時期を終え、鄧小平、周恩来等穏健派の力が強くなり、合理的な国内政策を進めようとしていた。その中で66年に文化大革命が起きた。1968年に私は「In Fear of China」を書き、イデオロギーを使った権力闘争になる、鄧小平と4人組が闘うと予測し、その通りとなった。周恩来は中間にいたが、鄧小平は追放された。周恩来は4人組と戦うには西欧諸国とパイプを作らなければならないと考え、71年4月名古屋で行われた世界卓球選手権で、いわゆる“ピンポン外交”を展開した。アメリカを含めて、各国は中国への招待を受けて喜んだが、唯一行かなかった国はオーストラリアだった。その時、私はマードックの新聞社の東京特派員だった。私はベトナム戦争に反対し、65年に外務省を辞めて、大学院で日本経済を研究していた。1年間日本に行く機会があり、日本の3つの魅力(山と食べ物と、もう一つ?!)を感じ、東京で特派員になっていた。なぜオーストラリアチームが中国に行かなかったのか、それは政府の反対があったからということを私は発見した。オーストラリアには根深い反中国論があった。そこで私が北京に電報を送り、オーストラリアチームの再招待を願い出てやっと招待され、私もその時招待された。10年待っての初めての中国訪問であった。
次に中国に行ったのが73年で、政府のグループと一緒に有名な公園に行った時の案内役が、何んと鄧小平であった。この時期、中国はまだひどい状態で、工場は物を作るのではなく、イデオロギーを作る所であった。変電器の工場を見学したが、みんな一所懸命働いているのを見たが、実は単なる演技で、たまたま戻って見てみたら工場は空っぽだった。

*天安門事件はいわゆる英語で言う“Black Information”。アメリカ、イギリス、オーストラリアが協力してのウソの情報だった。ちょうどゴルバチョフが訪中していた時期で、長い間学生達を広場から追い出さなかった。ゴルバチョフが天安門に入れず、大変メンツを潰されてしまった。6週間も占拠し、広場にはトイレも作り汚くなっていたので、追い出すことを決め、初めは政府は武器なしで兵隊を送った。これはアメリカ大使館の報告書にあり、インターネットでも閲覧できる。大衆は兵隊が広場に入り込むのを妨害したため、翌日には武器が必要であると決めた。大衆が軍に対して、ガソリンボンベを使って攻撃し、バスが炎上した。中国の人は滅多にガソリンボンベを使うことはないので、悪党が渡したのではないか。兵隊はまだバスの中にいたので、沢山の人が死んだ。その時の写真も残っている。広場の中では虐殺はなかった。広場ではスペインのテレビ局(TVE)が一晩中待っていて、学生は3,000人残っていたが、何も起きなかった。以上は全てアメリカ大使館の報告に記載されている。あの有名な戦車の前に立つ学生の写真が世界中に配信されたが、戦車が広場から出て行く時の写真で、学生は安全だった。では、なぜ天安門事件の大虐殺が世界中に報道されたか?3日経って、サウスチャイナ・モーニング・ポストの一面トップ記事が出て、ニューヨークタイムズのトップ記事になり、全世界に天安門広場に大虐殺があったとの情報が定着した。実際は何もなかった。こういう風に欧米の世論は完全に大虐殺報道に支配されてしまった。

*次は微妙な話だが、尖閣列島問題に入りたい。1971年、アメリカは沖縄諸島を日本に返すつもりだった。沖縄諸島と尖閣を別々に考えていた。尖閣は沖縄諸島の西側で、地域領域に入っていない。台湾は43年のカイロ会議でアメリカに働きかけて、沖縄をアメリカと共同支配しようと求めた。49年内戦に敗れた台湾に沖縄を渡す筈はもちろんなかったが、台湾は尖閣についてアメリカに働きかけた。尖閣列島はイギリスが18世紀に発見して、「ペニクル・アイランド」と名付けた。中国では何百年前から釣魚台という名前があった。アメリカは沖縄は返すが、尖閣列島の所有権については何も言わなかった。
72年の周恩来・田中角栄会談で、尖閣列島については棚上げとし、田中も納得した。当時会談に同席した栗山条約課長も棚上げについて認めている。今になって日本政府は棚上げではないと言っている。平気で嘘をつき、今日の状況となった。中国は何度も棚上げの状態に戻したいと主張している。南シナ海でも紛争が起きているが、1952年の日華平和条約には、パラセル島とスプラトリー島を中国に返還するとはっきり書いている。その条約を書いたのはアメリカである。Black Informationは今でも平気で続いており、南シナ海でも中国の侵略と非難されており、そういった意味では中国はちょっと可哀そうだと思う。中国にも責任があり、文革があったから誤解されたし、中ソ論争とかで誤解されていることもある。私は中国の悩みや努力を理解し、評価もしている。

*日本と韓国の間が酷い状態になっている。新聞や本等で“バカな韓国人・・・”ということばが平気で販売されている。韓国が中国寄りになって一番困るのはアメリカであり、東アジア外交が台無しとなってしまう。だから、水面下でそうならないように一生懸命努力している。

〈質疑応答〉
Q:天安門事件については訂正してほしい。報道された程ではないが、実際に虐殺はあった。人民日報では約300人が死亡したとの報道があり、共産党自身も認めている。

A:広場の周りでは、攻撃され一部の兵隊が暴走して民衆を攻撃し、たくさん死んだのは事実である。但し、広場の中では虐殺はなかった。コロンビア大学の研究では、虐殺記事を報道したのはサウスチャイナ・モーニング・ポストの責任だと明確に書いてあり、その記事を書いた本人は行方不明となり、名前もわからない。

Q:安倍首相の戦後レジームの解体についてのお考えは?
A:私が日本に来た時は本当に平和で、魅力的な国だった。NHKも素晴らしいドキュメンタリーを作り、以前の日本が悪いことをしたと認めていた。南京事件もさることながら、731は否定のできない事実であった。私の著書の「ユニークな日本人」は右翼、保守派に大変人気があった。当時は進歩派が優勢だったので、保守派は長い間我慢をし、今は完全に逆転している。その責任者の一人は櫻井よしこで、彼女はだんだん右寄りになり、講演会で人気となり、保守派が勢力を増した。NHKもだんだん右寄りになり残念だ。ひどいのは産経新聞だが、駅の売店なんかでは、読売新聞と同じようによく売れている。日経新聞も進歩的だったが、完全に右寄りとなった。

Q:アメリカが1971年に沖縄を日本に返した時の思惑は? ①尖閣の所有権について主張する権利がない②将来の紛争のタネにするため、わざと所有権を曖昧にした。のどちらと思うか?

A:1943年のカイロ会談では、ルーズベルトは沖縄を中国(当時は国民党)に任せようとしたが、蒋介石はアメリカとの共同管理を提案した。終戦後台湾ロビーが積極的に動いたが、当時のアメリカは台湾ロビーを満足させるために、所有権を曖昧にした。

Q:天安門で報道されているような虐殺がなかったなら、中国は堂々とそれを主張すれば良いのに、隠そうとしているのはなぜなのか? 尖閣列島を棚上げにするのは一つのアイデアと思うが、具体的にどうすればよいのか?

A:石原慎太郎が手を出さなければ、また国有化をしなければ棚上げの状態はそのまま続いていた。鄧小平が言ったように、所有権は将来の問題として、次世代にお任せする。具体的にどうすればよいかについては、問題は外交問題になると、日本政府は正直にしない。日本人が性質を変えなければならないだろう。例えば外務省アメリカ局長の吉野文六氏が沖縄返還密約は存在すると発表した翌日に、安倍首相は国会答弁で密約は存在しないと平気で嘘をついた。建前と本音が違うというのは日本人独特の性質であり、中国も含めて外国人とは異なる。日本は本件についてはもっと大人らしく振舞うべきだ。日本では面白い現象があり、誰かが何かを発表してもマスコミはすぐあの人の真意は違う所にあるのだと書く。

Q:今の中国の指導者についてどう思うか?

A:中国の新しいリーダーシップにかなり期待している。特に腐敗については。今の腐敗はどうしようもなく、必ず強い反発が出てくるだろう。今のリーダーシップはそれが解っていて、本格的に何かをやろうとしている。問題は不動産バブルで、日本は固定資産税で上手くコントロールしているが、中国では上海と重慶だけが固定資産税をかけている。一人っ子政策も早く止めるべきだったが、中国は案外暢気な所がある。

Q:日中国交正常化の時に、周恩来と田中角栄が棚上げに合意したというのは事実であり、当時の読売新聞の社説でも棚上げ支持と書かれていた。なぜ棚上げが文章として残らなかったか?

A:文章としては残っていない。周恩来は言ったが、田中角栄ははっきり返事をしなかったという情報もある。田中方式で「よっしゃ、よっしゃ」ではなかったか。そういった意味では棚上げが100%決まっていた訳ではない。78年に鄧小平は次の世代に任そうとはっきり言ったが、それに対して当時の園田外相はノーとは言わなかった。

Q:堤清二さんの大平正芳の生涯について書かれた「茜色の空」で、その際のやりとりが詳しく書かれている。ほぼ合意していたが、最後その部分が残り、大平が根回しして周恩来と話をして、最終的に田中に言わせたということが詳しく書かれている。

A:当時親台湾派が自民党の中に沢山いたので、そういう人達を怒らせたくなかったので、はっきり文章にしなかったのではないかと私は思う。

Q:韓国が中国寄りになり、日本が孤立するというお話があったが、日中韓の関係を促進するために、若い人に何を期待しているか?

A:田母神さんの講演会に行ったら、半分以上が若者だった。日本の若者は保守的で期待できない。韓国はbalance of powerがあるので、期待できる。若者による交流改善は、今の日本の状態だと無理。しかし、最近の韓国の動きを見て、多少展望が開けてきた アメリカもバックアップするでしょう。あのvery disappointedは大変意味がある。アメリカがバックアップしないと日本は中国と韓国に対抗できないでしょう。

皆さんにとって私の話で新しい情報はありましたか?中ソ論争の間違った分析がベトナム戦争の大きな原因となった。キッシンジャーは後でそのことを認めた。中国は攻撃的で、ベトナムを通じてアジアを支配しようとしていたと思ったので、アメリカは参戦した。

Q:エズラ・ボーゲルは世界平和研究所で中曽根元首相に二つの提言をした。①アジア・太平洋戦争での日本の責任をきちんと纏める。②戦後、日本がやってきた世界平和への貢献を纏める。残念ながら実現していない。この二つのことをどういう風に世界に伝えていけばいいのか?

A:もう遅い。中曽根さんはなかなか面白い。年を取れば取る程だんだんと平和的になってきた。しかし、盧溝橋事件は偶然だった。一人の兵士がトイレに行って自分の部隊に戻るのが遅くなったため、上官は中国人に殺されたと思い込んだのが発端だった。関東軍は本来ソ連に侵攻したかったが、そのような偶発的な事件により中国と本格的な戦争に突入した。もし、日本がソ連に侵攻していたら、ヒットラーがほとんどソ連を制覇していたので、ソ連を挟み撃ちにして世界は日本とドイツのものになっていただろう。


グレゴリー・クラーク氏のコメントおよび質問

私が香港にいたのは60年代と古い。香港は中国の領土だから仕方がない。私が学生の頃、大学をちょっと訪問したが、雰囲気があまり良くなかった。私は香港の若者が天安門事件をまったく歪曲したのが気に入らない。二つの面がある。天安門事件は何だったか。天安門広場で何が起こったか?何もなかった。まったく何もなかった。私の友達は一晩そこで待った。全然何もなかった。では香港ではどうだったか。タンクマンの写真を撮ってきて、それを発表した。あれは次の日、戦車が広場から出た時だ。でっち上げばかりだ。私はあまり好きではない。学生の心は尊重しているが、あまり好きではない。宣伝もあるし。中国の実態を本当にわかっているのかどうか疑問を感じる。

質問があるとすれば、似ている点がある。天安門事件は広場の外だった。一般の市民が軍隊を攻撃した。それに軍隊が反発して、銃を乱射した。旺角で何が起こったか。やっぱり学生ではなくて一般の市民だった。雰囲気とか、全体的にかなり違っているのではないかと思う。そういう意味でちょっと天安門事件に似ているのではないかと思う。

Q:雨傘革命の後、「自由行」に反対するグループがより急進的になっているという報道もある。色々な要素をきっちり区分けしながら見ていかなければいけないというのが、今回の雨傘とかあるいはその後の成り行きを見ていく上でポイントとなると思われる。

 g.clark.pdf                      (一部敬称略) 以 上

(一部敬称略) 以 上

第3回日中関係セミナー
「雨傘革命と中国世界の民主化」講演要旨
東京大学准教授 谷垣真理子氏
2015年3月10日(水)18:30~20:30
TKPスター貸会議室四谷

1. 自己紹介
 私は高校卒業まで、地元の大分で過ごした。その後入京ビザを取るように東京大学に入学し、そのまま東京に定住している。
 九州では短波ラジオがなくても中国の放送を聞くことができた。中学生時代に耳にした「日本の人民の皆さん」という呼びかけに感じた違和感を今も鮮明に覚えている。そして、ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」。まさに運命の出会いだった。この映画がなければ東大に進むことも、香港の研究に携わることもなかった。
 大学卒業は雇用機会男女均等法施行の少し前、就職先がまったく無かった。せめて卒業論文には大好きな香港のことを書きたいと資料を探したが見当たらない。インターネット普及前のことである。教授に相談すると、台湾についてなら資料があるという。別の教授と話したところ、教授には「キンコンカンコン」としか聞こえない広東語がきれいに聞こえるのを一種の才能と評価され、大学院に進み香港研究の道を志すことを決めた。専門は地域文化研究専攻だが、香港を中心に研究を進めてきたが、最近は華南地域にも目配りしている。

2. 香港返還
 香港は御存知の通り、中国、東南アジアさらに南アジアまでが飛行機でだいたい5時間圏内にあり、まさにアジアのハブの位置にある。かつての英領植民地であり、南京条約、北京条約、新界租借条約という3つの条約により形作られてきた。
 中華人民共和国成立以前に保証されていた自由往来が成立以降かなり制限され、香港は出稼ぎの場所ではなくなった。さらに冷戦構造の中で対中国向け中継貿易港としての機能をほとんど失った。狭い土地に1950年段階で約240万という人口を抱えた香港は、工業化・国際化の方向に向かう。近代的な大都市や進んだ英語教育を始めとしたイギリス統治下の香港のイメージは中華人民共和国成立以降に確立していったと言えるだろう。
 そして1984年の中英共同声明で返還後の方針が決定した。外交と国防を除く自治が認められるとした「一国二制度」もここで定められた。「香港の高度な自治」や、香港人が香港を治める「港人治港」、「50年間は従来の制度を変えない」も同様である。
 返還前の過渡期には、中国の人治に対する強い警戒感が蔓延していた。中国の人治への防御壁として民主化に取り組む一群が生まれ、1992年にはパッテン総督のもとで民主制度改革案が出された。一方、1984年に中英共同声明が発表され、その後1989年に天安門事件が起きると、海外への移民が大量に増えた。特に多かったのがカナダへの移民である。建ぺい率ギリギリで庭のない大きな家、いわゆる「モンスターハウス」がカナダのリッチモンドなどに次々と建築され、まるで香港が出現したようだと言われた。それに伴い、後で出てくる「明報」という新聞もカナダ版を発行するようになった。

3. 返還後の香港
 返還後の香港特別行政区はどうなったかを見てみよう。香港ドルは返還前同様に流通し、法律は香港法のまま、行政長官は選挙で選ばれる。内閣に相当する行政会議、国会に相当する立法会議も返還前とそれほど変わらない。そうすると、返還前はイギリスが担っていた外交・国防を中央政府が行うようになったくらいで、あまり変わらないように見える。
 しかしその一方で、経済面では大きな変化が生まれた。返還翌日の1997年7月2日にアジア通貨危機が起きている。その後1999年に完成した新香港国際空港開港に伴う混乱により物流がかなり打撃を受けた。フライトスケジュールが消え、香港出張時にはスーツケースを担いで行かないとベトナムに行く飛行機に乗り遅れてしまう、などと日本でも話題になったので記憶に新しい方も多いと思う。さらに2003年のSARSの大流行により重要産業である観光が大きな影響を受けた。この結果、香港の経済構造は中国内地頼みを強めていく。
 また、返還前に香港と中国大陸に分かれて暮らしていた家族が、返還前に子女を中国大陸から香港に密入境させ、返還と同時に「香港人」である子女に香港居住権を与えるように求め入境事務所に殺到、香港居住権裁判に発展した。ここでいう「香港人」とは、香港居住権(永住権)を有する人々を指す。返還後の香港の小憲法である基本法は、親が香港居住権を有する場合には、中国籍の場合、香港以外で生まれた子女にも香港居住権を認めている。これは香港と中国内地との関係の増大を予想させ、香港社会の人的構成を変化させ、「香港人」のアイデンティティを揺るがす一因ともなる可能性を持つ。

4. 雨傘革命の経緯
 各メディアが報じているが、雨傘革命は香港の選挙改革の議論と密接に関連し、2013年初頭から開始から早い展開を見せた。2013年1月に「中環占領」の発案が行われ、その後、民主派を中心とする「中環占領」グループ・香港特別行政区政府・中国中央政府との間で普通選挙をめぐって議論が展開された。2014年6月22日に「中環占領」グループによる住民投票が行われ、「住民推薦」方式が国際的基準を満たす普通選挙実施方法として選出された。これに先立って、6月10日に国務院が香港政策白書を発表し、8月31日には全人代が2017年行政長官選挙について大枠を決定し発表した。これを不服として、9月22日に学生たちが授業ボイコットに突入し、国慶節の時期に予定されていた雨傘革命が予定より早く、9月26日に発動されてしまう。それはその後、12月15日まで学生による市街地占拠が行われる。
 雨傘革命では、傘が印象的に使われていた。雨をよける以外に、学生鎮圧のために使われると言われた胡椒スプレーや催涙弾から目などを守る用途もあった。
 私が現地を訪ねたのはほとんど運動が収束していた12月3日から4日である。この時期は、並んでいるテントに学生は暮らしておらず、平常時は家で食事を取り、シャワーを浴び、学校にも通い、一日の営みが終わると、集合して気勢を上げることが多かったようだ。ただ、必ず誰かがいる、ということをアピールするためテントの前には靴が置かれていた。
 ゴミの分別は徹底されており、募金箱も一切なかった。外国勢力からおかしな金銭的支援を受けたと言われないよう配慮したのだろう。その代わりに物資供給ステーションという場所があり、そこで必要物資を掲示し、供給を受ける形になっていた。女性用の公衆トイレには保湿クリームや手洗い用品などが置かれ、とてもきれいに管理されていた。
 雨傘革命には、香港の政党も参加してはいたが、参加者の大部分は高校生や大学生だった。政党関連のテントは非常に少なく、專上学生聯會という大学自治会の連合組織と国民教育反対運動を組織した学民思潮の2つが、テントにメンバーを常駐させていた。
 これは、2003年、前述の基本法で国家転覆罪の禁止を定めた23条の立法化手続きを巡り、50万人規模のデモが起きた時とは対照的であった。このデモでは民主党をはじめとする民主派が非常に活発で、その後、公民党、社会民主連線など民主派が多様化する契機ともなった。
 普通選挙の実施が香港で盛んに議論される理由について、中国の一党独裁に対する香港の若者の不満が原因だと考えられるかもしれない。しかし、実際は基本法という法律に現れた大きなビジョンに対して香港と中央政府、あるいは香港内では若い世代とビジネス界が綱引きをしているという構図が背景にあると思われる。
 基本法には、香港の行政長官と立法会の全議員は「最終的には」普通選挙で選出すると書かれている。「最終的には」というのがポイントで、それがいつかは未定である。現状確定しているのは、香港の立法会の議員の半分は直接選挙、半分は職業団体別選挙で選出されるところまでである。これをどう実現するかが、香港政治の大きなアジェンダだ。
 前述の23条立法化反対デモの後、香港で普通選挙を全面的に導入してもいいのではないかという声が強まった。一党独裁の中国共産党が認めるはずのない普通選挙を求めて騒ぐ香港の人はお人好しだ、という意見は当然あるだろう。しかし、香港の友人や先生筋に話を聞いたところ、中国返還から10年たったら普通選挙が全面的に実施されるべきだと訴える声が多かったことを申し添えておきたい。
 2007年の段階では、2017年の行政長官選挙では普通選挙を導入しても構わないという方針が全人代から出された。その後は2017年選挙で普通選挙をいかに実施するかに向け香港の政治は動いていく。
 「中環占領」Occupy Centralは、2017年選挙でよりのぞましい形で普通選挙を導入されることを目指して発案された。選挙改革案が国際的な水準に合致しない場合は香港のビジネス街である中環で大規模なデモを行うという、アメリカのOccupy Wall Streetにならったものだ。中環占領の発案と平行し、選挙制度の改革についての議論が進んだ。民主派の政党や政治団体が大同団結して、本当の普通選挙実施を訴えた「真普選連盟」が2013年2月に成立した。返還前の香港の政務長官、陳方安生が作った「香港2020」も2013年3月に発足し、いかにして普通選挙が行われるべきかについて、さまざまな案が出された。その後、2013年12月より、香港特別行政区政府によって諮問作業が始まった。
 現行の香港の行政長官選挙では、1,200名から構成される選挙委員会によって、行政長官が選出される。行政長官選挙の立候補には構成員の八分の一の推薦が求められる。選挙委員会は、職業団体別にビジネス界、社会、サービス、そして4番目が政界から構成されている。「政界」には香港の立法会あるいは区議会の議員、新界の原居民(新界租借条約締結以前から祖先が新界地区に居住、土地権益を持つ)が組織する郷議局、さらに中国大陸の全人代や政治協商会議の香港代表が含まれ、中央政府よりの立候補者が通りやすい構成である。
 しかし、それが普通選挙になると、香港出生者もしくは7年以上連続して香港に住んで香港居住権を持つ18歳以上の住人に選挙権が与えられ、有権者が500万人規模となる。
 2014年8月31日、全人代の決定は、選挙委員会の過半数600名の推薦を行政長官選挙立候補の要件とし、これまでの行政長官選挙の状況を踏まえて、候補者数を2、3人に絞ることがうたわれた。この決定の背景には、民主派寄りの候補が出て結果のコントロールが出来ない事態を避けるべく立候補の要件を絞ってしまおうという考えがあったのだろう。「出口」を広げる以上、「入口」を締めることが求められた。
 香港民主派は、これまでの行政長官選挙では構成員八分の一の推薦というハードルはなんとかクリアできてきた。しかし、過半数の推薦を要件とされるとなると、香港民主派が候補者を擁立できなくなるであろう。形の上では普通選挙だが、これを本物の普通選挙とは呼べないというのが雨傘革命に参加した学生たちの主張だった。

5. 雨傘革命の背景
 雨傘革命は上記の政治制度改革に関連する問題だけではなく香港社会の変化を反映するものだったと思う。近ごろメディアによく取り上げられる現象として「中港衝突」がある。
 2003年のSARSの後、香港経済を浮揚させるために打たれた色々な手立てに、自由貿易化構想があった。SARSの後、香港にビザなし渡航ができる「自由行」が始まり、広東省の沿海都市から始まって徐々に拡大していった。2009年には深圳市に限って香港への数次渡航ビザが出されるようになった。
 この辺りから「中港衝突」が顕在化したように思う。内地人買い物客のマナーの悪さが問題になる。例えば、地下鉄の車両で子供におしっこをさせる。ブランド品が並ぶような地域で座り込んでものを食べる。文化の違いと言えばそれまでだが、それをネットで香港人が叩く。それを見た内地人が非常に不愉快な思いをする。私は今、大学で広東語を教えているが、中国内地出身の学生がその日のネットニュースについて、香港人の過剰な対応を話題にすることが多くなった。ネットが香港人・内地人の対立を煽っている。
 現実の生活では、香港人、特に若者にとって競争が厳しさを増している。日本以上に少子化社会の香港では、返還後、政府は優秀人材受け入れプログラムを準備し、大学は内地の学生を積極的に受け入れるようになった。前述の分離家族が一日150名の割り当て枠を使って入ってくる。2013年の香港イヤーブックによると、年間40,000人に上る。そうして入ってきた学生は置かれている環境が厳しいので比較的よく勉強する傾向がある。香港では高校卒業時に統一試験があり、もっとも成績がよかった「状元」は新聞で報道されるが、5人のうち2人くらいは内地出身者が名前を連ねるというのが近頃の状況である。
 「自由行」を始めて以降、不動産価格がとにかく上がったことも見逃せない。1999年の住居用フラットの数字を100としたら、2005年や2006年は100を切っていた。それが2010年になると150、2011年になると、182まで上がる。2014年は257、つまり返還時には3000万で買えた家が、2.5倍の7500万に跳ね上がっている。
 さらに、2014年は香港の新聞を見ても暗い気持ちにさせられるようなニュースが続いた。返還後、民主派の活動や自由が守られるのかが憂慮されていた。この年、目に見える形で問題が起きてきた。前述の明報という新聞だが、総編集長が2014年1月に突然更迭された上、2月に襲撃され重症を負い、一時期は生命も危ぶまれる事件があった。民主化する前の台湾と香港が似てきた印象がある。

6. 周辺地域の状況
 日本にとっても中国といかに付き合うかは重要な課題である。しかし、日本よりもはるかに強い影響下にある香港を始めとする中国周辺地域に、関係のあり方が深刻な課題として認識されたのがまさにこの2014年だったと思う。
 3月には台湾でひまわり革命が起き立法府が占拠された。5月にはマカオで、特別行政区政府の高官優遇法案の成立に反対して2万人規模のデモが起きた。
 台湾のひまわり革命は両岸サービス貿易協定に反対するものだった。長い目で見れば必要なことかもしれないが、中小企業が打撃を受けることが問題視された。香港と同様に、台湾でも若者は中国大陸とどうつきあうかという問題と直面していた。台湾訛りの中国語が使用されていたメディアである日突然、北京訛りの中国語が流れるようになり、大陸資本に買収されたことが目に見える形で示された。
 マカオでは、不動産の上昇が香港より極端だった。返還後カジノを導入、経済が活性化され、福祉のバラマキが行われた。それでもデモが起きるのは、もはやそんな手ではダマされないくらいに不動産価格の上昇が生活に打撃を与えたことを意味している。マカオは香港と比べるとずっと人口が少なく、これまでは香港ほど民主化の要求がなかったところである。 
各地域で行われた動きは、表面的には民主化の要求に見えるが、その根本には急速に発展する中国といかに付き合い、生活を防衛するかということがあるような気がする。
 しかし、これは中国の国内においても同じ状況ではないだろうか。急速な経済発展のもと大規模な開発が行われ、それに異議を申し立てる動きも出ている。雨傘もそうした大きな流れの中に位置づけられるのではないか。

7. 中央政府の立ち位置と雨傘革命の持つ意味
 雨傘革命をめぐる動きについて気になることがある。香港の報道を見ると中国の中央政府はあたかも一枚岩のように見えるが、本当にそうだろうか。2007年には普通選挙は2012年選挙では導入しないが、2017年選挙では導入しても構わないということになっていた。こう中央政府側から提起しておきながら2014年になると、香港の人が激怒するような話が出てくる。全人代の決定の少し前、6月10日に国務院が香港政策白書を出して、香港の全面的統治権を中央政府が持つと繰り返す。香港政策が非常に強硬になっていく。
 香港のやんちゃぶりに中央政府が呆れ、中央政府一丸となって香港情勢を締めようとしているだけであろうか。前々回の早稲田大学の唐亮先生のご講演では中国は内政に関しては非常に強面だという話があった。外政と内政の狭間にあった香港の立ち位置が、やや内政の方に近づいてきた、と解釈することもできるだろう。
 また、中国の中に路線闘争があり、香港政策に関してはやや強硬派が優勢なのではないかという気がする。香港政策白書を出したのは香港・マカオ弁公室ではなく国務院の新聞弁公室だった。しかも白書を書いたのは江沢民派の張徳江だという。習近平が権力掌握過程で色々な闘争を行っているが、対立する江沢民派が、香港を嫌がらせの材料に使っているように見えるほど、香港政策白書、全人代決定ではあまりにも強硬な方針が示された。
 今回の雨傘革命について外国勢力からの介入が警戒され、イギリス下院議員が香港を訪問しようとした時に在英中国公使が中英共同声明はすでに無効であるという発言をしたと言う。いかに強硬路線がとられていたのかを、示した事例であろう。
 雨傘革命の原因について、必ずしも中国内地対香港とか、中央政府対香港という軸だけで言い切れるものではないだろう。返還後17年を経て香港がだんだんに中国の国内政治に取り込まれ、香港政治が中国の内政化してきたということも大きな背景にあると思う。
 最後に、香港からの移民率がまた増えだしたと言われるが、1997年返還時の状況を再び見ているような気もする。返還自体は1997年に終わっているが、将来的には一国二制度の期限である2047年という大きな区切りが控える。そのころ、今回の運動に関わった若者たちは働き盛りで家族を持つ年齢になっている。雨傘革命は現状に対する不満だけでなく、香港の将来に対する思いを反映した、香港民主化運動史における重要な事件であった。香港の学生運動として一時代を画した1970年代の釣魚台防衛運動、尖閣諸島防衛運動のように、この先、時間を隔てて見た時に、大きな意味が明らかになってくるのではないだろうか。

〈質疑応答〉
Q:2047年から先、香港がどういう形になるのが中国にとって一番得か。二制度のままにして国際的地位を保つか、併合して自分たちの国の一部とするべきか。

A:今の形を続けるという決定は出しにくいだろう。返還問題は中国近代史の重みそのものだ。こういう議論は現状を前提とするしかないが、香港と中国との関係それから中国内地そのものが急速に変わりつつある。かつて、確かに香港は一強だったが、深圳や広州が発展している。一国二制度は中国語で「一國兩制」。「兩」を「良」として「良制」になるようにしなくてはならないという議論もある。

Q:日本人の関心は今、経済から環境問題など、その次の幸せに移りつつある。台湾や香港の若者たちの生の感覚を教えてほしい。

A:香港は、珠江デルタの一番河口、中国の環境の悪化を直接感じる場所にある。環境問題は身近なものだ。水質問題だけでなく、食の安全についても日本よりもずっと早くから意識されていた。毒野菜という言葉があるが、収穫前に農薬をかけすぎた野菜はよく洗わないといけない、悪い野菜炒めに当たると大変なことになる等と時々新聞等で報道される。

Q:経済とか平和に関する意識は?

A:香港の今の若い世代は日本の若い世代と同じく戦争を直接的には経験していないが、老人世代は中華人民共和国成立時に安定を求め香港に逃げてきた人が多く、国を選ぶという経験を持つ、独特の平和とか安定を求めるDNAを持っている人たちだと思う。

Q:雨傘革命、ひまわり革命というが、革命は起きていない。天安門革命とは言わないが、このあたりはどういうニュアンスなのか。民主化運動と呼ぶべきではないか。

A:大変な数の人が街に出て、金鐘だけでなく銅鑼湾、それから尖沙咀と旺角でも自発的に占拠が起きた現象を革命と呼びたいという気持ちではないだろうか。120万人が参加したという天安門事件の抗議活動は確かに革命とは呼ばれていないが、有事に立ち上がるという選択肢を香港の人々に示す契機になったのではないか。天安門事件以降、香港では毎年追悼集会が開かれているが、近頃再び参加人数が増え、前回は15万人とか18万人の参加者があったと言われている。

Q:先ほど雨傘革命も中央政府の焚付けたものじゃないかという話があったが、中央政府も世論を操作するために色々な手の込んだことをやらないといけないような状態になってきているということか。

A:現中央政府内の権力闘争が香港政策の強硬化という形で出たのではないかと思っている。先程は習近平に対する嫌がらせと表現したが、香港で本式の革命が起きて習近平が右往左往するのを見たくて強硬路線に走ったという解説記事もあった。2015年1月の梁振英行政長官の施政方針演説中では、香港大学の学生自治会の機関紙が香港の独立を画策したとして名指しで批判されている。しかし、台湾の二・二八事件のように人が死ぬようなことは香港では起きなかった。催涙弾は使われたが人民解放軍は出動していない。香港問題が中央政府の各派の議論の一つの材料として使われている可能性を視野に入れ、今後調べていきたいと思っている。

Q:香港人のイギリスに対する評価と、大陸の人の評価に違いがあるのか、または香港人はイギリスについてどのように考えているのか教えてほしい。

A:プラスの評価が結構ある。西洋の学問や技術、情報に触れる機会を提供してくれたこと、歴史的な建造物は経済発展の中であまり残っていないが、司法制度、それからグローバルスタンダードへのアクセスを残したことを評価する声が多い。しかし、そもそも植民地である香港が「天国」のようなところだと思ってやってきたわけではなく、自分の力でどうにか出来る余地がある分、「地獄」よりマシだという意味合いを含む評価であることも忘れてはいけない。

Q:イギリスは帝国主義ではあったけれども、グローバルスタンダード的な制度を残すことで恩恵をもたらしてくれたと感じていると理解してよいか。

A:香港を国際金融センターとか、あるいは貿易港として維持するために、交通網や良い港といった物質的なインフラとは別に法律制度という制度的なインフラが必要だった。恩恵というよりもむしろ、経済的利益を追求した結果、おまけでついてきたメリットと思われる。

Q:雨傘革命がなぜ起きたかについて、香港の経済が良くなるには民主化が必要だと若者たちが考えたからという解説記事を読んだことがある。しかしそれは間違いだという解説もあった。先生のご意見を伺いたい。

A:経済がうまく行っていないということは、大きな背景としてあると思う。ただそれに加え、香港経済が良くなるためには中国との連携を切ることができないというジレンマがある。その辺の葛藤が雨傘革命の背景にあるような気がする。経済が良くなるためには民主化が必要かについては疑問の声もあるが、問題は、民主化を求める声の高まりを無視することが適切な対応かどうかという話だと思う。

ある参加者からのコメント

私はインターネット風刺漫画家です。(以下、通訳者の表現)質問者は中国で活躍し、香港でも公民運動の賞をもらいました。ただ、中国政府から出国拒否され、授賞式には出席できませんでした。大陸に私と同じような考え方を持っている若者もいると思いますが、香港問題と中国大陸の問題は分けられないと思います。中国大陸の問題が解決しなければ、香港問題は解決できないと思います。ここに一つ、私が知っているエピソードを紹介しますが、開示されたイギリスの外交文書によると60年代にすでにイギリス政府による香港で民主化を進めようという動きがあったそうです。ただし、当時の周恩来総理は猛反対していました。香港は民主化に進んではいけないと。当時、周恩来総理はイギリス政府に対して、こう発言しました。つまり、香港を植民地のままにしない、人民解放軍を香港に進軍させようかと。それくらい、香港の民主化に反対していたそうです。
 それに、香港が返還される1997年の前後、中国共産党政府から大量の親中の共産党派の人たちを香港に移住させた。その理由は香港の政治勢力を変えるためだったそうです。去年、香港の雨傘革命の時に、私も関心を持って見てきました。香港の若者たちは、本当の普通選挙を手に入れたいと言っていますが、中国共産党に対して反対する人はいない、あるいは出てこなかった。中国共産党が続く限り、香港普通選挙は実現できないと思っています。
 そして、香港の人たち、若者たちが求めている本当の普通選挙は、大陸にも絶対に必要だと私は思いますが、習近平さんにとっては非常に怖いことです。心配していることです。では習近平さんが何をやってきたかといいますと、一つは香港の雨傘革命の本当の状況を大陸の若者に伝わらないようにしています。中国大陸にいる香港の雨傘革命を支援している若者たちがインターネットでアップロードした、例えば「私は雨傘革命を支援します、香港の若者は素晴らしい」というような書き込みなどは全部ブロックされたんです。香港からも見られないようにされています。それなので私は、香港の未来に対してはちょっと悲観的に思っています。中国大陸で普通選挙ができない限り香港でもありえないでしょう。ありがとうございます。

以上

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IPEX Office
陽風館
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講演会余話

日中セミナーに至るまで

新宿の猛暑.jpgこのセミナーの前身といえば、SAS中国グループの主催によるセミナーです。SASは「システムズ・アナリスト・ソサエティー」といって1971年に縦社会日本で活躍している企業や学界の精鋭を横断的に集めて、社会の様々な問題に主体的に取り組むという趣旨で結成されました。この組織の中に日本と中国をテーマに考え、実際に両国の上質な人々が交流できるようにとグループを作りました。そして1980年から10回の訪中を行い、北京大学の学生との交流をはじめ着々と成果をあげてきました。その間に中国グループのリーダーである張 仁凱さんのイニシアチブのもとにセミナーもたびたび行ってきました。このグループの発展がIPEX創設につながり「日中セミナー」を主催し現在にいたっているのです。