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窓フィレンツェ.JPG国際人材交流支援協力機構

于 恩洋 IPEX大賞

趣旨

日中交流に生涯を捧げた于 恩洋氏を記念し、研究者を中心に広く一般から論文を募集し、賞金を授与するもので、2007年に特別に行ったものである。最終選考結果6つの論文が残ったが、学術的な観点から最優秀のものがなく、理事長賞として金20万円の授与にとどまった。

選考結果

   論文名:「学ぶ・発信・実践の場を提供―華僑華人の歴史を素地に、相互理解の種を育てるために―」
                    著  者:段躍中(東京都在住)

段躍中氏の論文は、テーマに良く則し、于恩洋氏の志にも合致し、実践の裏づけも充分であり、この論文を顕彰し広報することは、日中相互理解向上に非常に寄与すると認められる。 また中国人留学生一人の活動でここまで出来た、という事実を示すことは、あなたにも何かできるし、しなければならないのではないか、という強いメッセージを発信することになる、との審査員の一致した評価であった。

于 恩洋氏について

于 恩洋さんは1923年9月17日、遼寧省錦州市に生まれ、1940年代の初めに東京大学に留学のため来日された。在学中から華僑運動に身を投じ、1948年華僑民主促進会の成立とともに中央委員兼事務局長として華僑の民主化運動に参加し、当時の華僑の全国組織である「留日華僑総会」の副会長に選出された。
しかし、当時の「中華民国駐日代表団」の「華僑総会」に対する干渉と分裂工作によって、于氏は1951年春、華僑総会の副会長を辞任したのち、当時「代表団」と真向から対峙していた「東京華僑総会」の理事に当選。以後、長期にわたった国民党政権との激しい闘いの中で活躍された。
その後は、東京華僑総会理事会議長(1955~1976年)を長く務められた。この間、中国貿易に従事しながら、中日両国間の経済、文化、人事交流の発展にも大いに力を注いだ。
また特筆すべきは、1967年の中国通信社創立から1976年までの間、同社社長として、新華社の日本での受信、配信の業務に尽力貢献されたことである。その気さくでおおらかな人柄は、彼を知るあらゆる人々から愛されたものである。
于 恩洋さんが強烈な祖国愛と人間愛に基づき愛国華僑運動と中日友好事業に記された足跡は、今なおますますその輝きを増している。当機構は「IPEX論文大賞」にその名を冠し、于 恩洋さんの活動を広く後世に伝えるものである。

段躍中受賞 論文

学ぶ・発信・実践の場を提供-華僑華人の歴史を素地に、相互理解の種を育てるために

目 次
はじめに
第一章、学ぶ----華僑華人の先人たちが築いてきた日中友好・相互理解の素地(1)あまり知られていない華僑華人の歴史と功績(2)老華僑たちが乗り越えてきた困難や、積み上げてきた功績をまとめる(3)急がれる史実の発掘と収集
第二章、発信----相互理解への関心の喚起(1)偏らない情報発信の必要性(2)日中関係専門の出版社の設立(3)中国人留学生による博士論文の出版支援(4)戦争と貢献から構築する共通の歴史認識(5)メールマガジン・ブログを用いた情報発信
第三章、実践の場を提供----相互理解を深める交流と実践の場を提供(1)場を提供する母体としての研究所の設立(2)日中作文コンクール(3)西池袋公園で行う日曜中国語会話サークル(4)北京オリンピックの支援と人材育成(5)資料センターの設立
おわりに

はじめに私が考える、市民レベルの日中相互理解を増進するための手法は、華僑華人の先達が培ってきた日中友好を素地とし、正しい情報発信によって相互理解に対する関心の種をまき、交流の場を提供することによって土壌を広げ、その芽を育て相互理解の花を開かせようというものである。近年、日中の市民レベルにおける感情には友好的とは言いがたい部分が多くある。しかし、在日華僑華人の歴史を紐解けば、日中における長く深い友好の歴史がある。私たちはまず、散逸しがちで知られていない華僑華人の史実の収集を行わなくてはならない。それらの歴史は「日中友好・相互理解の素地」だからである。先達の経験に学び、先達の培ってきた素地をしっかりと踏まえてこそ、よりよい未来を築くことができるだろう。そしてその上で、日中両国の市民にむけて、学術研究に基づいた偏りがない情報発信が必要である。市民レベルの日中相互理解を増進させる上で、大きな障害となっているのは何だろうか。これまで私が16年にわたって日中交流に携わってきた立場から思うのは、偏った情報に基づく誤解と、情報不足による相互理解の困難さである。現在、日中両国の間には、偏った情報が多く発信され、相互理解のために真に必要な情報が不足している。例えば、日本では、蛇頭などの犯罪や食品の危険性などのセンセーショナルなニュースばかりがクローズアップされ、中国に対する負のイメージが作り上げられてしまっている。このような情報の偏りを是正するためにも、学術研究に基づいた適切な情報が日中両国の市民に向けてより多く発信されなければならない。先達の築いた「日中友好・相互理解の素地」の上に、正しい情報発信が行われれば、より多くの市民が日中相互理解に関心を示すようになる。芽生えた関心を育て、多くの人の間に広げたい。そこで必要になるのは、実践の場である。日中友好・相互理解を志す人たちから、「(交流する)場所や機会がない」や「やり方がわからない」という言葉をたびたび聞くことがある。そこで、現在は限られている交流の場、実践の場をより多く設け、普及させ、市民の相互理解への関心をより確実に、相互理解の増進へとつなげるのである。この方法は、私が16年にわたって日中交流に携わる中で、目標とし行ってきたことである。その経験から、この手法によって、市民レベルの日中の相互理解を増進することができると確信している。以降の章では、在日中国人である私が来日してから16年間行ってきた活動の成果や反響をもとに、市民レベルでもさまざまな増進をはかる方法があること、その方法の有効性を示したいと思う。

第一章、学ぶ----華僑華人の先人たちが築いてきた日中友好・相互理解の素地を学ぶ

(1)あまり知られていない華僑華人の歴史と功績在日華僑華人の歴史は、友好の素地である。なぜなら、その友好の歴史は、相互理解の活動の積み重ねだからである。彼らが日中両国のはざまで直面し乗り越えてきた誤解やコンフリクト、そしてその解
決策はきっと今後の日中関係の改善に参考になるだろう。しかし残念なことに、華僑華人の歴史と功績は多くの人に知られていない。そもそも、華僑華人はいつ、どのような経緯で来日したのか。何のために、やってきたのか。華僑華人が日本社会にどのように貢献し、日中関係や双方の文化を伝えることにいかに尽力してきたのか。例えば、于恩洋先生は、華僑華人・中国人留学生の偉大な先達であり、その功績を知る人ならば誰もが讃えるが、残念ながら多くの日本人がその功績を知らない。逆に、多くの日本人は蛇頭の犯罪などのセンセーショナルなニュースによって負の在日中国人像を作り上げてしまっているが、もし華僑華人・中国人留学生の先達である于恩洋先生の功績を知ることができたならば、誰もが讃え、日本人の中国人に対するイメージは変わるのではないだろうか。

(2)老華僑たちが乗り越えてきた困難や、積み上げてきた功績を学ぶ一般的に、改革開放以降に来日した中国人を新華僑と呼び、それ以前の華僑華人の先達は老華僑と敬意をこめて呼ばれる。老華僑たちが乗りこえてきた困難や積み上げてきた功績を収集し、学ぶことが重要である。私はまず、機会を見つけては華僑華人の先達にお話をうかがい、これまであまり知られていなかった歴史をまとめる作業を行ってきた。そして、日本僑報社(後に詳述するが、私が華僑華人・日中関係書籍を専門に発行すべく設立した出版社)ではこれまでに、老華僑の史実を多角的に知ってもらえるような書籍を出版してきた。日本華僑華人聯合総会名誉会長陳焜旺氏主編の戦前戦後における老華僑の社会活動史をはじめて系統的にまとめた『日本華僑・留学生運動史』、日中間で医療において活躍され、新潟華僑総会会長の惠京仔博士ご自身が執筆された自叙伝『祖国之鐘』や、天津飯店社長として成功された王克昌氏のライフヒストリー『商旅―天津飯店の王克昌社長』、華僑華人史の研究書である『日本華僑華人社会の変遷』など10数点である。『日本華僑・留学生運動史』の刊行は、1990年、東京華僑総会のきもいりで日本華僑・留学生運動史の編集・出版を目的とした「日本華僑華人研究会」が生まれたことに端を発する。私及び日本僑報社は、全面的に「日本華僑華人研究会」刊行に協力し、その当時の全貌を把握するため努カを重ねた。そして、2004年に、華僑及び留学生の来日した由来や新中国成立後の留学生運動といった社会的な活動史の全体像をはじめてまとめ、華僑の正当な利益保護、日中友好・交流の推進、中国を正しく伝える活動、祖国建設への支援等に貢献した経緯を明らかにしたのである。本書は華僑華人社会・日本社会・中国社会から注目され、人民日報1などの中国の主流メディアにも取り上げられ、在日華僑華人の歴史に一定の注目を集めた。中国に帰国した元日本留学生らの間でも大きな話題を呼び、2006年には中国語版も出版された。内外の中国人や華僑関係業務を行う各機関の参考書として、華僑史研究の空白を埋める意味合いがある。とりわけ在日華僑にとっては、重要な歴史的記録が残ることにもなると評された。

(3)急がれる史実の発掘と収集貴重な在日華僑華人の史実を発掘して収集し、まとめなくてはいけない。そうでなければ貴重な史実が埋もれたたまま時が過ぎてしまう。在日華僑華人の歴史は、日中友好・相互理解の素地なのだ。私たちは先達の歴史に学ぶことから始めるべきである。しかし現在、華僑1世・2世の高齢化で貴重な歴史が散逸しつつある。例えば、魯迅や郭沫若は日中において大きな影響を与えた留学生であることは改めて述べるまででもないと思うが、その留学からは90年の時が過ぎ、彼らの留学についての記録はもはや失われつつある。残念なことに、研究しようとしても記録もなければ資料も散逸しているのが実態である。今こそ、聞き書きや資料を収集し、埋もれてなくなってしまう可能性すらある華僑華人の史実の発掘を火急に行うべきである。日中交流に貢献した于恩洋先生のお名前を誰もが知るように、華僑華人・在日中国人の史実を集め、広く伝えることが求められている。今後とも史実の発掘や収集を行い、誰もがそれらの素晴らしい史実に学ぶことができるように努めたい。1 「人民網日本語版」2006年9月20日付

第二章、発信----相互理解への関心の喚起―適切な情報発信

(1)偏らない情報発信の必要性私は留学のために1991年に来日したが、いざ日中関係の研究を行おうとしたとき、図書館で資料を探してみて華僑華人・在日中国人に関する書籍の少なさに驚いた。ビジネスや経済に関わるもの以外の書籍がほとんど無かったのだ。そして、マス・メディアで報道される負の在日中国人像に再び驚いた。例えば、中国人留学生に絞って述べると、92年に調べたデータでは、読売新聞92年6月においてアジアからの留学生に関する40編の記事のうち、三分の一が不法滞在や犯罪、アルバイトを怠けるといったものであった。日中相互理解の前には、こうした偏った情報に基づく誤解と、情報不足により作り出された誤ったイメージが立ちはだかっていた。本当に、華僑華人・在日中国人は犯罪者集団なのだろうか。日本では在日中国人はだれもが犯罪に関わっているかのようなイメージを持たざるを得ない報道が多いが、前章で述べたように、老華僑の先達にお話をうかがえば、全くそんなことはなく、逆に日中に貢献した素晴らしい功績、困難を乗りこえ相互理解につとめてきた業績が山のように積み上げられていることがわかる。また、私の知り合いの新華僑もだれも罪など犯しておらず、留学経験を活かして研究活動に励んだり、IT企業に勤めたりして、日本社会に成果を還元しているではないか。そこで私は、華僑華人・在日中国人の実態を全面的に調べるために、その一人一人がどのような人物であるか、広くデータを収集しはじめた。できるだけたくさんの老華僑・新華僑に会って話を聞き、新聞や雑誌、テレビを見てはそこに挙がる名前を記録し、データ整理を行った。この活動を続けていくうちに、日本社会に対して華僑華人・在日中国人の情報があまりにも不足していることを痛感した。確かに、罪を犯した在日中国人もいる。しかし、その数は華僑華人・在日中国人の全体数からみると、非常に少ない割合であることはデータ上でも明らかだった。マス・メディアには犯罪などのニュースを伝えるという任務があるとはいえ、これでは正確な華僑華人・在日中国人の情報とは言えない。決して、日本社会及び同胞に正しく情報が届いていない、と感じた。このままでは華僑華人・在日中国人、ひいては中国人全体が誤解されたままになってしまう。私は自分のできる限りの力を出して一歩一歩頑張っていこうと決め、全く相手にされない可能性も覚悟しつつ、行動を起こした。するとやがて、誤ったイメージを好転させる積極的な反応が返ってくるようになってきたのである。

まず、華僑華人・在日中国人についての意見を全国・地方各紙誌に投稿の形で訴え続けることからはじめた。一留学生の自分が、何を行えば日中友好・相互理解増進に貢献できるのか考えたとき、まず考えついたのがこの投稿という方法だった。日本語もまだあまり上手とは言えなかったが試行錯誤し、金銭的な力が無いかわりに時間をかけて提言を述べる投稿は、当時、単なる一留学生だった自分にも可能な日中友好・相互理解増進への貢献であった。最初は掲載されることも危ぶんでいたが、やがて相次いで掲載されるようになった。最初に採用された文章は「新聞と私 外国人留学生の記事、明るい面も報道して」というタイトルだった2。決して私の日本語がうまかったというのではなく、これまで知られていなかった華僑華人・在日中国人の視点からの提言ということが大きかったと思われる。ちなみに投稿活動は現在もたゆまず行っている3。次に、1996年に、「在日中国人の新聞・出版活動の成果展示会」の企画・実施を行った。日中における文化交流の促進及び日本への留学成果を形にするために、それまで日中両国において散逸していてまとめて手に取ることが難しかった、中国人が日本語で執筆した著書を展示する展覧会を開催したのである。「同胞が綴った本からは、中国人の日本観が見えてくる。多くの日本人に見てもらいたい」という気持ちから企画し、開催に向けて尽力し、在日中国人が発刊した50種類以上の新聞・雑誌や、中国人が直接日本語で書かれた100冊以上の書籍を展示した。当時は、博士課程在学中であったため、新潟で実施した。1998年には、江沢民氏の来日とあわせ、内山書店の協力で、中国人が日本語で書いた著書約150冊を一堂に集めた「中国人の日本語著書展」を開催した。翻訳ではなく、直接、日本語で書いた著書だけを集めたという点では、ユニークであったと思われる。また、「在日中国人の新聞・出版活動の成果展示会」の企画・実施では、たった2日間の開催だったにもかかわらず、1000名を超える日本人の観覧者が来場し、「中国人の日本語著書展」ではそれを上回る観覧者が訪れてくれた。博物館の展示などと比べると、規模としては決して大きなものではなかったにもかかわらず、「中国人の人が、日本語で書いた書籍がこんなにあるとは知らなかった。日中関係では問題が起こることもあるけど、日本で活躍して頑張っている中国人の人がこんなにいるとみんなが知ったら、きっとかわるのに(30代、女性)」など、多くの感想が寄せられた。また、一留学生が行った展示であるのにもかかわらず、NHKの夜9時の番組に特集が組まれ、日中文化交流の新しい一ページが開い2 読売新聞『[気流]「新聞と私 外国人留学生の記事、明るい面も報道して」』(1992年8月15日付)より。3 これまでに200回以上掲載。たと評された。1998年には、『在日中国人大全』(1998年)を編著し、出版した。日本に住む約1万人の中国人の動向や業績を初めてのデータブックとして初めてまとめた本である。留学生であった私が手探りの状態で編著したため、不十分な点が多いが、約5万件のデータを950ページにまとめた。在日中国人の全体像を少しでも網羅的に明らかにするために、改革開放後に来日した個人だけではなく、華僑総会、留学生会、同郷会(県人会)、科学技術者連盟、企業家懇話会、中国語教師協会など華僑華人の組織や活動状況を列挙した。本書は、あちこちのマス・メディアに取り上げられた。一介の留学生であった私が、毎日新聞・読売新聞といった日本の主流メディアから取材を受けた。朝日新聞では「ひと」欄4で掲載され、読売新聞は一面の「編集手帳」5 で取り上げてくれた。NHKでは特集6も組まれた。このことは、多くの在日中国人がそれぞれの専門分野で活躍し、日本社会において貴重な存在として貢献していることが大きく報道される契機となったのである。日本のメディアでは在日中国人の犯罪報道が多いが、在日中国人たちの活躍情報を細かく収集・整理していった結果、実際には、日本に貢献する人や修士号や博士号を持ち、最高学府で教鞭を執る教授や研究者などが大勢いて、しかも増加の一途をたどっていることがわかった。これらの情報が広く伝わったならば、在日中国人に対する日本社会の認識が変わっていくことに加えて、在日中国人自身も「同胞たちの活躍」から刺激を受け、行動するようになっていくことが期待できる。投稿や展示会、『在日中国人大全』への反響は非常に大きかった。このことは、在日中国人に関する情報がいかに少ないか、偏っていたかを物語っていた。

(2)日中関係専門の出版社の設立1999年、私は「日本僑報社」という小さな出版社をたちあげた。日中友好・相互理解増進に、貢献するためにより積極的に情報を発信したいと考えたのである。過去においても現在でも中国ビジネスに関する書籍は多いのだが、その他の日中友好・相互理解増進に不可欠と思われる日本人の中国における活躍、中国における文化・政治などの現状及び市民の生の声がわかる著書、在日中国人の活動に関する研究書などは、日中両国においてまだまだ不足している。4 1998年4月26日付。5 1998年7月10日付。6 1999年6月17日放送。NHK衛星第1放送『ハローニッポン』(日本で暮らす外国人にスポットをあて、その活動を通して、現代日本へのメッセージを伝えるドキュメンタリー番組)で、「人材の宝庫 在日中国人ネットワーク」という番組で、日本に貢献する在日中国人が特集された。8そのため、華僑華人及び日中関係専門の出版社の必要性を感じ、日本僑報社を創立した。そして、3つの視点から、160冊の刊行を行ってきた。1つは華僑華人・在日中国人の活躍、2つめは日本人の中国における貢献、3つめは現状に即した情報発信を、中立の立場から行っている。1つめに述べた「華僑華人・在日中国人の活躍」の視点からは、先に述べたように、老華僑に関する書籍や、『中国人の日本奮闘記』、『創業物語-在日中国人自述』など、現在活躍中の新華僑の全体像を向上させるための成果をまとめた書籍を世に出した。加えて、『中国人の日本語著書総覧』、『在日中国人媒体総覧』といった「中国人の日本語著書展」で明らかにした、中国人が日本社会で発信しているメディアや出版活動を、広く知ってもらうための資料として用いてもらえるよう、出版した。また、日中相互理解の未来を担う新華僑の子供達の視点も忘れず、『新芽―在日華人児童作文集』や『日本的夢--孫旭穎作文集』なども刊行している。2つめに述べた「日本人の中国における貢献」という視点からは、『新中国に貢献した日本人たち』、『続 新中国に貢献した日本人たち』などを刊行してきたが、さらに今後は「中国の改革開放に貢献した日本人」をキーワードに、日中友好の礎を築いた人々を両国に伝えるシリーズを刊行する予定である。3つめの「現状に即した情報発信」という視点からは、『アジアカップ・サッカー騒ぎはなぜ起きたのか』、『「反日感情」か それとも「対日嫌悪感」か』、『中国のインターネットにおける対日言論分析』、『中国の「対日新思考」は実現できるか』、『「氷点」停刊の舞台裏』など現状に即した書籍、後述の学術研究書や作文コンクール作品集など、随時、多様な書籍を刊行している。中でも、中国で日本語を専攻する大学生が「日本語とは何か」、日本と日本人にどのような思いを抱いているのかを吐露した『「中国の大学生」発 日本語メッセージ』は朝日新聞「天声人語」7にて紹介された。小さな出版社であるため、大手のように出版物を広範囲に流通させることができないという問題はある。しかし、手にとって読まれたときには、大きな力を発揮する。「華僑華人・在日中国人の活躍」についての発信が、入国管理局長に大きな影響を与えた例を述べたい。坂中英徳氏(元東京入国管理局長)は、入管のトップとして「出稼ぎ中国人との闘いの日々」を過ごしていた。しかし、罪を犯すよりはるかに多い在日中国人による日本への貢献を知り、氏の見方は一変。氏は在日中国人の活躍を紹介するようになり、自身も弊社の「隣人新書」シリーズ(日中は永遠に離れられない隣人であるという意味を込めた新書シリーズ)の著者となった。この、2004年に出版された『外国人に夢を与える社会を作る-縮小していく外国人政策』では、氏が7 2004年12月24日付9在日中国人の貢献を知る前の政策に対する思いを率直に述べ、少子化による人口減少をたどる日本社会において、どのように外国人を積極的に受け入れる政策を展開していくかを論述している。坂中氏が2006年に執筆した論文では、次のように述べられている。『長年外国人行政に携わってきた私も最近まで在日中国人の実態を知らなかった…(中略)…私はこうした「在日中国人の再発見」の幸運に恵まれて、日本社会に貢献している在日中国人の姿を知ってもらいたい、「在日中国人に夢を与える社会」をつくるために少しでもお役に立ちたいと思うようになった。』8とのことである。

(3)中国人留学生による博士論文の出版支援日中友好・相互理解増進のためには、偏らない情報の発信が必要である。そのためには学術研究を促進すべきである。なぜなら、学術研究を行うことによって、さまざまな分野の客観的なデータに基づく情報が発信されるからである。また、研究を促進するだけではなく、その成果を、誰にでも手に取れる形に刊行する必要があると思われる。そうすることで、広く両国の市民に情報を発信できる。また、刊行することによって、研究成果が次の研究の資料として活かされ、さらに進んだ研究が行われるだろう。学術研究の促進・刊行を行うためには、日中関係の研究に従事する研究者を増やすとともに、その研究成果の出版も支援する必要がある。その具体的な方法として、中国人留学生による博士論文の出版支援が考えられる。これにより、研究成果の出版の支援だけではなく、日中関係の研究に従事する研究者を増やす効果が期待できる。日中交流の先端にいる留学生であるが、よく言われてきたことは「留米親米、留日反日(米国への中国人留学生は米国を愛するが、日本への留学生は日本を愛さない)」である。留学をして日本で学んだにもかかわらず、日本によい感情を持たない留学生は多い。その一つの理由は、日本で研究した成果が世に認められず埋もれてしまうケースが多いことが影響していると考えられる。日本の出版事情により、留学生の博士論文や修士論文の出版は困難であり、ほとんど刊行されることはなく埋もれていってしまう。中国人留学生による博士論文の出版を支援することによって、日本で研究した成果が形として残り、しかも、中国人留学生が研究を続けていく助けにもなる。このことによって、留学生の留学生自身のモチベーションもあがることが期待される。私の経験から、この方法には更なる副次的効果があるといえる。それは、日本社会からのポジティブな反響である。日本僑報社では、2002年の日中国交正常化8 『外交フォーラム』(2006年6月号)1030周年を記念して、中国人博士論文を対象にした華人学術賞を創設し、7冊の博士論文を中国人博士文庫として刊行し、2004年には第一回・中国人留学生修士論文賞も創設した。これに対して、留学生からは「日本で学んでいく励みとなる」との声が寄せられ、日本社会からは、「不法就労や犯罪といった中国人留学生のイメージが払拭され、また研究成果が参考になった」という反響があった。

(4)戦争と貢献から構築する共通の歴史認識次に、研究に基づく情報発信の重要性を示す一例として、戦争と貢献から見る歴史認識の構築について論じたい。日中の相互理解を考える上で、重要な点がある。それは、共通の歴史認識の構築である。特に戦争に関してはお互いの主張に大きな食い違いがあり、また日中における貢献については大きな情報不足がある。まず、戦争に関する食い違いであるが、この食い違いを是正するためには、データに基づく研究成果を中立的に発信していく必要性がある。私は日本僑報社を通じて「8.15」シリーズを刊行している。「8.15」シリーズは、歴史教科書問題、靖国神社問題、戦争責任問題等を記録したもので、2000年から毎年8月15日に出版を行っている9。日中において、大きな問題として横たわっているのは戦争問題である。日本は中国に「いつまで謝罪すればよいのか」と思い、中国は日本に「なぜ謝罪しないのか」と平行線のまま、長い年月が経過している。そのため、「8.15」シリーズでは、日中両国の研究者や元日本軍兵士といった幅広い視野から何が問題となっているのかを捉えた研究成果を刊行している。交流を続けるために日中間における対立・矛盾・異見をなくし、日中における歴史の共通認識を作り上げるためのシリーズとして刊行し続ける必要があると考えている。たとえばこのシリーズの中で、日中間の戦争責任問題がこじれている原因の一つが、単純な言葉の上での誤解なのではないかということが議論された。それは日本が謝罪の言葉として使っている「お詫び」という言葉に対する日中の価値観の相違である。日本における「お詫び」は補償を伴う重い意味を持つ一方、中国語にそのまま翻訳された場合、「謝罪」より軽い意味しか持たない。このように、研究に基づく中立的な情報発信を通じて問題を解きほぐしていくことは非常に重要である。また、日本と中国では、民間レベルにおいて多く協力しあい、互いの国に貢献9 『私が出会った日本兵』、『つくる会の歴史教科書を斬る』、『沈黙の語りべ-中国の抗日戦争を支えたモノたち』、『尊厳-半世紀を歩いた「花岡事件」』、『偽満州国に日本侵略の跡を訪ねる』など12冊。11しあっている。実際、日本の中国に対するODAは1980 年から2004 年まで31,331億円となり、日本政府が派遣した専門家は5,376人、青年海外協力隊員は632人、受け入れた研修生は16,839名10となっている。中国においても国家友誼賞(政府から授与される最高レベルの栄誉)を受賞した日本人は、170人以上11となっている。しかしこうした事実は実はあまり知られていない。そのため、日本僑報社では先述したように「中国の改革開放に貢献した日本人」をキーワードに、日中友好の礎を築いた人々を両国に伝えるシリーズを刊行する予定である。このようなポジティブな情報も研究を通じて発信することで、より友好的なイメージの構築にも寄与できると考える。

(5)メールマガジン・ブログを用いた情報発信近年、私は出版と複合させて、インターネットを通した情報発信に力を入れている。日中友好・相互理解増進に関した情報へのアクセシビリティを高めるために、出版という形に加えてインターネット上の4つのメディアで発信している。どれも、決して難しい方法ではない。無料でシステムを利用でき、必要なのは発行者が情報を発信することだけである。その内の1つがWEBページの公開12であるが、さらにもっと手軽で簡単に相互理解を増進させる手段として、メールマガジン・ブログ・携帯向けメールマガジンを活用している。メールマガジンは「日本僑報電子週刊」13(1998年創刊)という名前で、10年近く発行している。冊子のように印刷するコストも配布の手間もなく、情報化時代に合わせ、スピーディに手軽に読んでもらいたいと創刊し、日中関係・華僑華人についての豊富な情報を配信し続けている。98年の創刊以来ほとんど休むことなく、670号以上を無料で毎週水曜日に配信しており、読者数も多く、日中関係者の間で身近な情報源として活用され、高い評価を得ている。また、情報新時代における日中交流の場として、活用されている。ブログ「段躍中日報」14では、メールマガジンでは難しかった写真入りの記事を毎日配信している。2005年4月の創刊だが、今まで、3300以上の記事を掲載し、10 『日本政府対華開発援助分省実績資料集』(在中国日本国大使館http://www.cn.embjapan.go.jp/oda_j.htm)より。11 新華社通信2004年9月24日付。12 日本僑報社・日中交流研究所http://duan.jp/jc.htm13メールマガジン「日本僑報電子週刊」http://www.mag2.com/m/0000005117.html「まぐまぐ大賞2006」ニュース・情報源部門にノミネート。14 ブログ「段躍中日報」http://duan.exblog.jp/12延べ15万人以上の読者が読んでくれた。また、中国語版ブログ15も設け、中国に向けても情報発信も行っている。加えて、2007年5月からは、携帯向けメールマガジンの配信も行っている。近年、携帯が便利になり、様々な情報が取得できるようになった。はじめたばかりでまだ読者数は少ないがどこにいても日中交流の情報を得られるよう、また携帯しか持たない若者世代への導入として、毎週配信している。これらの方法は、研究に裏打ちされた情報を広く伝えるのに有意義である上、読者との相互理解や交流を促進することができる。あるときには初めて出会った方から、「ブログやメールマガジンの情報を見て出かけた交流会で、親しく友好の和を広げることができた」といううれしい言葉を聞けたこともあった。繰り返しになるが、これらの方法は、決して難しいものではない。私のしてきたようにメールマガジンやブログを用いてもらえるならば、約10年の成果を見ていただければわかる通り、効果的に交流情報や研究成果を市民自らが手軽に無料で配信することができる。特に、民間の草の根交流や情報発信を行う場合に、メールマガジンやブログを用いるならば、誰もが市井の民間大使として、活動することができるのである。

第三章、実践の場を提供----

相互理解を深める交流と実践の場を提供華僑華人の先達の歴史を素地として、両国の市民に情報を発信した後に必要なのは、両国の市民が活動する場を提供することである。日中交流に関心を持ったとき、情報の受信者で終わるのではなく、市民が相互理解に役に立つ行動を実際に起こすには、どうすればよいか。私は、人々が活動する「場」を提供することが求められていると考えている。突然交流やボランティア活動を行うのは、難しい。何が社会や人々に必要とされているかわからず、短期間で活動を挫折することも大いに予想される。また、全ての市民が同じように活動できるわけでもない。各人のレベル(中国に関心を持ち始めた人や中国語の初学者から、長年日中関係に携わってきた市民、研究者、翻訳家まで)に応じた場を提供し、市民の活動ネットワークを広げていくことが日中友好・相互理解増進に繋がっていくだろう。また、その活動を次代につなげていくにはどうすればよいか。場を提供する母体としての研究所と4種類の場の提供について、私が実際に行っている活動と15中国語版ブログhttp://blog.sina.com.cn/u/122477530013意義を具体的に論じたい。

(1)場を提供する母体としての研究所の設立日中関係は、常にうまくいっていたわけではない。日中国交30周年を経ても、日中関係は歴史問題などで、揺れ動いていた。なぜ、このような事態が起こるのか。小泉内閣の頃、日中関係はたびたび政冷経熱と言われ、日中関係は政府レベルでは冷え込んでいた。市民レベルにおいても似たような状況はあったが、周りを見渡し、知人や日中関係者に話を聞いたところ、政府レベルと市民レベルには差異があることがわかった。市民レベルには、積極的あるいは潜在的に相互理解が必要だと思っている人々が多いのである。そこで考えた。日中友好を深め、相互理解を増進するには、相互理解を志す人の数を増やしていけばいいのだ。積極的に相互理解や交流を望む人々には機会を作り、潜在的にそれを望む人々を巻き込むように相互理解の輪を広げていけばよい。以前にも、私は「日中交流ネットワーク」という小さなネットワークを開設し、中国語倶楽部や資料展示、シンポジウム、講演会などの活動を通じて、地域において直接日本人と外国人が交流し、国際交流ができるように願って活動を行っていたが、それを発展させる形を思い立ったのである。そのため、戦後60周年に当たる2005年1月、負の遺産を乗り越え、新たな日中関係を構築すべく、日本僑報社の執筆者及び日中関係の若手研究者を中心に、日中交流研究所を設立した。日中交流研究所は研究活動を行いながら、実際に交流活動の場を提供できる母体として活動することを目的としている。具体的には、幅広い市民レベルの交流、そして次世代を担う青年達の民間交流を促進するため、下記で述べる「日中作文コンクール」「西池袋公園で行う日曜中国語会話サークル」「北京オリンピックの支援と人材育成」「資料センターの設立」などを運営・維持している。日中友好・相互理解増進への新たな一歩を、共に手を携え踏み出せるよう、努力している。

(2)日中作文コンクール私は来日当初から新聞への投書を行ってきたが、市民が簡単に提言を行える場はそれほど多くないと感じていた。積極的に投書し、自分の意見を述べることによって、相互理解の増進に繋がる。幅広い市民レベルにおいて、相手国の言葉で互いに思考し、提言しあえる場が必要ではないだろうか。その1つとして、私は2005年から「日本人の中国語作文コンクール」(中国大14使館等後援)16「中国人の日本語作文コンクール」17(日本大使館等後援)を行っている。スピーチコンクールは多数あるが、作文コンクール、しかも双方の言葉で書きあう作文コンクールというのは希少であると思われる。書くことによって思考が深まり、遠い存在であった中国と日本を身近に感じることができる。そして、それを元に議論することができ、問題点の発見や交流を深めることができるのではないだろうか。副産物として、逆説的であるが、書くことによって語学の修得不足をおそれず、交流することが可能になると思われる。たとえ語彙が少なくとも、機会と伝えたい思いがあれば辞書や周りの中国人・日本人とコミュニケーションを取ることで、文法的には不十分なものであっても、提言を伝える練習となる。これらのことによって、日中の交流促進・相互理解増進に加え、次世代の友好を担う青少年の育成に寄与できるのではないか、と考えている。実際、2006年に行った第二回・日本人の中国語作文コンクールの学生の部・最優秀受賞者は、8才であった。また、作文コンクールを実施することにより、「このような機会があるのならば」と中国語・日本語学習の熱が高まる。言葉を学ぶ人々が増えることで、日中交流はさらに広がっていく。中国人の日本語作文コンクールを例として述べたい。第三回からは、社会人の部を創設した。それは池袋にある日中交流研究所に国際電話がかかり、「社会人の部も作ってほしい」との要望が寄せられたためである。これは、日中関係改善のために何か提言したいという市民の積極的な意志の表れであり、そうした人々が増えることは大変喜ばしいことであると考え、すぐに社会人の部を創設した。コンクールを一過性のものに終わらせないために、コンクールの受賞作品集18は、書籍として刊行を行っている。中国人の日本語作文コンクールは60本以上の日本語作文を収録し、日本人の中国語作文コンクール作品集は日中両国民がより読みやすいように日中対訳版で刊行している。中国人の日本語作文コンクール受賞作品集は、できる限り多くの大学や教育機関に無償で配布するようにしており、既に中国の50以上の大学で副教材とし16日本人の中国語作文コンクール http://duan.jp/cn/index.htm第一回では243本、第二回では228本の応募があった。第三回は募集中。17中国人の日本語作文コンクール http://duan.jp/jp/index.htm第一回では1890本(85大学)、第二回では1616本(109大学)、第三回は社会人の部と併せて1473本(99大学)の応募があった。18日本人の中国語作文コンクール・第一回コンクール受賞作品集『我們永遠是朋友』(2006年)、第二回コンクール受賞作品集『女児陪我去留学』(2007年)中国人の日本語作文コンクール・第一回コンクール受賞作品集『日中友好への提言2005』(2006年)、第二回コンクール受賞作品集『壁を取り除きたい』出版(2007年)15て用いられている。日本語の学習教材として、また日中間の問題に直面する学習者の生の声ということから採用されているのである。加えて、第二回「中国人の日本語作文コンクール」受賞作品集『壁を取り除きたい』は、中国人の日本語学習者の生の声が伝わると、朝日新聞読書面にて『書評委員 お薦め「今年の3点」』(2006年12月24日付)に選ばれた。

(3)西池袋公園で行う日曜中国語会話サークル次に、中国語の初学者から熟練者、中国語はわからなくとも日中友好・相互理解に関心を持つ人に対して、身近な交流の場を作ることも重要である。ある日本人は「中国語も少し勉強し、日中友好に興味がないわけではない。しかし、交流の場が少ない」と述べながら嘆息していた。これは、決して珍しい意見ではない。そこで、2007年8月5日から、「星期日漢語角」(日曜中国語会話サークル)19を西池袋公園(東京都豊島区西池袋3-20-1)にて開始した。教室や公民館など、敢えて屋内の施設を選ばずに公園を会場とし、会費不要で、自由な雰囲気の中で交流を行えるよう試みている。政府や公的機関のお仕着せではないので、市民がその後自ら交流を活発化していくことが可能であると思われる。日本に住む中国人として、地域に根ざした草の根活動にも力を入れるべきであると考えている。いつか「池袋といえば西池袋公園に中国語サークルがある」と、すぐに思いだしていただけるような日中交流の拠点として成長することを願っている。これまで(2007年8月30日現在)4週にわたって連続して開催したが、日中の多くの市民が参加して互いに発信しあい、社会的にも大きな反響があった。日中の多くのマスコミがこの活動を報じてくれた。人民網日本版ではアクセスランクランキング一位20となった。市民に望まれている活動なのだという確かな手応えがある。

(4)北京オリンピックの支援と人材育成更に、既に活動できるだけの力を持っているが、活動する機会のない市民にむけた実践的に交流する場の提供が必要であろう。私も「北京オリンピック支援日中通訳・翻訳ボランティア協会」(略称:八八会)21を2007年8月8日に立ち上げた。翻訳・通訳の支援だけではなく、下記の目的を持って活動を行う。19 「星期日漢語角」(日曜中国語会話サークル)http://duan.jp/link/20070805.htm20 2007年8月29日付。21「北京オリンピック支援 日中通訳・翻訳ボランティア協会」中国語名称:支援北京奥運日中翻訳志願者協会http://duan.jp/link/20070808.htm161.通訳・翻訳を通した北京オリンピックの支援2.オリンピックを通した日中における相互交流、相互理解の促進3.オリンピックを応援・広報等、幅広い支援活動4.日中における相互理解を促進するための人材育成この活動は立ち上げたばかりであり、まだ関係部署に書類を送り、ボランティアを組織しはじめたばかりであるが、多くの反響が寄せられている。オリンピックの支援はもちろんの事ながら、オリンピックの後も引き続き日中における相互理解を増進することのできる人材の育成も行えると期待している。日中相互理解は、オリンピックの閉幕とともに幕を閉じるのではなく、新たな幕をあけることになるだろう。

(5)資料センターの設立日中友好・相互理解増進のために活動する人が増えてきた後に、必要になるものは情報を得る拠点となる資料センターではないだろうか。私も小さいながら、資料センターを開いている。1996年に「中国留学生文庫」と名付けた小さな資料センターを作り、後に、それを基盤として新たに「在日中国人文献資料センター」を創設した。現在に至るまで無償で整理・研究を行い、資料を提供する活動を継続している。現在、資料センターには、1980年代中期から、在日中国人による新聞や雑誌などの実物が約200種類・数万点ある。将来の華僑華人・在日中国人の歴史研究に大変重要な資料になると信じている。問題は資料が年々増え、置く場所に困っていることであるが、できる限り日中交流に関した資料、新聞、ミニコミ誌、書籍などを幅広く網羅する収集を心がけている。そのため、他では見ることのできない、失われてしまった資料などもあり、日中の研究者、学生、マスコミ、官庁関係からもかなりの利用者がある。日中友好の歴史を記した資料は価値がある。この瞬間も、日中交流を深めるべく多くの人が努力し、日中交流に関した資料、新聞、ミニコミ誌、書籍などが生み出されている。しかし、そうした資料は無くなりやすい。そのため、いざ日中交流や相互理解のための研究を深めようと思ったときに、利用できる常設の資料センターがある必要があると考えている。以上は、私がこれまでに行ってきた場の提供である。もちろんこの4つだけでなく、相互理解への関心を持った人のレベルやニーズに応じてよりきめ細かな場の提供が必要と考えられるが、重要なことは、このような場の提供によって強く相互理解が増進されるという点である。関心を喚起させ、そして関心を実践へと移す場の提供が相互理解を増進させるのである。

おわりに

前章までに述べたのは、先達の培った「日中友好・相互理解の素地」を振り返り、正しい情報発信を行うことで、市民の相互理解への関心を喚起すること、そして場を提供することによってその関心を実践へとつなげていく手法である。地道な活動だが、そうした草の根の活動により、日中の市民レベルでの相互理解は進められるのではないだろうか。私自身、微力ではあるが、このような活動の中から成果や反響を感じている。これらの活動が一層広がり、より良い方向に進むという確信している。しかし、本論文の意図は、決して私が行ってきたことを、自慢しようというのではない。本論で紹介した活動は私個人による企画・発案で行ってきたことではあるが、むしろ、個人の力の限界を感じることも多々ある。「三重三軽」是正の必要性日本語の語学力や資金難も問題であるし、日本社会全体には「三重三軽」(重官軽民、重団体軽個人、重遠軽近)があり、市民レベルの活動が制限されることがあるのだ。「三重三軽」とは、私が中国語で名づけた日中交流における特徴である。「重官軽民」とは、官僚や政府は重視されるが一般の市民や民間は軽んじられる傾向があるということだ。私の事例でいうなら、民間が行っていると言うことで、日本語作文コンクールのような活動でも、基金から続けて支援を得られなかった。「重団体軽個人」とは、大きな団体は重視されるが個人は軽視されがちということである。同じく私の経験した例で言えば、後援名義の申請をする時、団体には役員名簿などがあるが、私のところには何もないのでいろいろ調べられたあげく、結局後援名義がもらえないことがあった。「重遠軽近」とは、遠い場所との交流を重んじることである。日本人が中国現地の人と交流することは無論大切だが、日本で隣に住んでいる華僑華人・在日中国人との相互理解増進にも一層力を入れるべきなのである。今後、さらに市民レベルの活動を活発化していくためには、これらの問題に取り組み、克服する必要もある。市民レベルの相互理解増進しかし、「三重三軽」の問題があっても、多額の資金がなくとも、日本語が不得意であっても、私が行ってきた日中相互理解に向けた活動は、市民の個人の力でも為せるのだということを示している。必要なのは資金でも、語学力でもなく、「心」ではないだろうか。「心」があれば、草の根の活動の相乗効果で日中の市民レベルでの相互理解は進められるのだ。それが、私が自ら行ってきたことをモデルケースとして、提示する理由である。一人でも多くの市民に、民間の立場から日中相互理解を増進する活動に取り組んでほしい。私の行ってきたことは、すべて権力も何も無い一市民が行ってきたことである。問題点も課題もあるし、全てを実行してほしいというわけではない。そうではなく、私のケースを参考にして、何か1つでも、自分にできることをやってほしいと考えている。例えば、私の事例に引きつけて書くなら、華僑華人の歴史を読んでみる、インターネットで中国への思いを書いてみる、北京のオリンピックのボランティアに参加してみる、作文コンクールに応募して自分の意見を述べてみる…。市民のアイデアでできることは、多くある。相互理解を応援するために市民レベルでの相互理解増進に応援するために、私自身の今後の目標を2つ述べたい。日中相互理解の増進のために、先に述べた3つの視点で、たゆまず良書を発行し続けたい。特に、散逸の恐れがある華僑華人の歴史や交流史を、『日本華僑華人全書』『日中交流年鑑』のような大型書籍の形で編纂し刊行する必要性を強く感じている。日本僑報社の目標として、頑張っていきたい。そして、いつかは東京で華僑華人歴史博物館の設立に携わりたいと考えている。これまで、神戸華僑歴史博物館はあるが、華僑華人の先達が多く住み、今も新華僑が増え続けている東京において博物館を建設する必要がある。博物館ほど立派なものでなくてもよい。個人として「大宅文庫」の真似事のようなものを作れればと思う。今は夢物語でしかないが、資料センターと合わせて、相互理解の場として活用できれば何よりである。種から相互理解の花を市民一人一人が、自分にできることを行うことによって、日中における相互理解の土壌は豊かに広がっていく。また、交流を深めてノウハウを得た市民が、別の場所や機会に自らが新しい場を提供する。波紋が次々と水面に広がっていくように、相互理解の輪を広げていくことが期待できるのである。「三重三軽」も、相互理解を志す人々の行動に後押しされて、解消されてゆくのではないだろうか。華僑華人の先輩が、日中に蒔いた友好の種。私自身が一市民として微力ながら今後も市民レベルの日中相互理解増進に貢献できるよう務めると同時に、今後も一人一人の市民が少しずつ自分にできることを為し、日中友好・相互理解の19土壌を広げ、「草の根の交流」の芽が高く伸び、相互理解の花が咲き誇ることを願っている。2007.8.31・西池袋にて